李氏朝鮮後期の貨幣
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「李氏朝鮮の経済」の記事における「李氏朝鮮後期の貨幣」の解説
1678年に許積・権大運などの建議によって戸曹・常平庁・賑恤庁・訓錬都監に命じて常平通宝を鋳造するようにした。この貨幣は朝鮮末に新式貨幣が鋳造されるまでおよそ2世紀にわたって鋳造発行されたが、その間に鋳銭行政が紊乱したし、朝廷でも各官庁の財政窮乏を救済するために鋳造を許容したので、文武の各官庁でこれを鋳造した。 1866年に興宣大院君は景福宮改築のために当百銭を鋳造した。しかし当百銭は財政難を打開することができず、むしろ物価上昇と大院君の執権体制の危機をもたらした。結局1868年5月に崔益鉉の上疏で当百銭は通用が禁止された。1883年には開化政策に対する費用に充当する目的で当五銭を鋳造し、乱れた通貨政策を整備する目的で常設造幣機関である典圜局を設置した。しかし当五銭もまた名目貨幣価値が実際の流通価値より低かったし、物価も暴騰させた。そして1895年に当五銭もまた通用が禁止された。 1892年からは典圜局で発行した銅銭である白銅貨が流通した。1894年甲午改革当時に新式貨幣発行章程によって銀本位制が、1901年には貨幣条例による金本位制が実施されて、この貨幣は補助貨幤として使用された。 日清戦争以後に日本は朝鮮の財政難を打開するという名分を掲げて借款を導入させた。またその代価で税関の運営権を独占して、借款提供の独占権を得た。日本は税関の運営権を日本の第一銀行に帰属させた後、関税を日本貨幣で徴収して、日本商人の朝鮮商圏支配を容易にした。また日本の貨幣が大量に流通することにより、朝鮮の貨幣はその価値が大きく下落した。 特に、1904年に日本人財政顧問目賀田種太郎は、典圜局を廃止して貨幣整理事業を断行し、貨幣価値が不安定な白銅貨を甲・乙・丙種に分け、乙種は甲種の1/5の価値だけ認定して、丙種は交換対象から除外した。しかし大部分の白銅貨を丙種に区分して、交換に応じなかった。これにより貨幣不足現象が発生し、商工業者と農民がその被害を多く被った。 また貨幣整理事業の資金は日本から得た借款で成り立っており、この事業の結果、日本の第一銀行が大韓帝国の中央銀行になり、韓国の資本が日本に帰属する結果を生んだ。
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