李氏朝鮮後期の貨幣とは? わかりやすく解説

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李氏朝鮮後期の貨幣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 07:33 UTC 版)

李氏朝鮮の経済」の記事における「李氏朝鮮後期の貨幣」の解説

1678年許積大運などの建議によって戸曹常平庁・賑恤庁・訓錬都監命じて常平通宝鋳造するようにした。この貨幣朝鮮末に新式貨幣鋳造されるまでおよそ2世紀わたって鋳造発行されたが、その間鋳銭行政紊乱したし、朝廷でも各官庁財政窮乏救済するために鋳造許容したので、文武の各官庁でこれを鋳造した1866年興宣大院君景福宮改築のために当百銭鋳造した。しかし当百銭財政難打開することができず、むしろ物上昇大院君執権体制危機もたらした結局1868年5月崔益鉉の上疏で当百銭通用禁止された。1883年には開化政策対す費用充当する目的当五銭鋳造し乱れた通貨政策整備する目的常設造幣機関である典圜局設置した。しかし当五銭もまた名目貨幣価値実際流通価値より低かったし、物価暴騰させた。そして1895年当五銭もまた通用禁止された。 1892年からは典圜局発行した銅銭である白銅貨流通した1894年甲午改革当時新式貨幣発行章程によって銀本位制が、1901年には貨幣条例による金本位制実施されて、この貨幣補助貨幤として使用された。 日清戦争以後日本朝鮮財政難打開するという名分掲げて借款導入させた。またその代価税関運営独占して借款提供の独占得た日本税関運営日本第一銀行帰属させた後、関税日本貨幣徴収して日本商人朝鮮商圏支配容易にした。また日本貨幣大量に流通することにより、朝鮮貨幣はその価値大きく下落した。 特に、1904年日本人財政顧問目賀田種太郎は、典圜局廃止して貨幣整理事業断行し貨幣価値不安定な白銅貨甲・乙・丙種に分け乙種甲種の1/5の価値だけ認定して丙種交換対象から除外した。しかし大部分白銅貨丙種区分して交換応じなかった。これにより貨幣不足現象発生し商工業者農民がその被害多く被った。 また貨幣整理事業資金日本から得た借款成り立っており、この事業結果日本第一銀行大韓帝国中央銀行になり、韓国資本日本帰属する結果生んだ

※この「李氏朝鮮後期の貨幣」の解説は、「李氏朝鮮の経済」の解説の一部です。
「李氏朝鮮後期の貨幣」を含む「李氏朝鮮の経済」の記事については、「李氏朝鮮の経済」の概要を参照ください。

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