本交渉とは? わかりやすく解説

本交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:36 UTC 版)

日清修好条規」の記事における「本交渉」の解説

明治4年1871年5月日本政府正規全権大臣として旧宇和島藩主の伊達宗城任命し副使となった柳原前光もまた継続して交渉進めた。これに対し、イギリス・フランス・アメリカ合衆国の3国は、日本清国がもし攻守同盟を結ぶことになれば、日本にとって決し幸福な結果もたらさないだろうとの共同声明発して干渉した。これに対し日本政府5月10日政府声明発して日清同盟の噂を公式に否定したであった6月伊達全権天津到着し、ただちに本交渉に入った第1条では「いよいよ和誼を敦くし天地と共に窮まりなかるへし。又、両国属したる邦󠄈土もおのおの礼を以て相まち、いささかも侵󠄃越する事なく永久安全を得せしむへし」として子々孫々までの日清友好謳われた日本側の条約案は当初清国欧米諸国結んだ条約、特に清国ドイツ帝国結んだ天津条約(清独条約)をもととして、日本欧米諸国立場に置く不平等条約であった日本としては、他の欧米列強のように最恵国待遇清国内地通商権獲得したかったのである清朝全権託され李鴻章はこれを一蹴し最恵国条款内地通商権規定削除し領土保全他国からの侵略対す相互援助規定盛り込んだ対案提起した。それが上述第1条、そして第2条示された「両国好を通󠄃せし上は、必す相関切す。もし他国より不公󠄃及ひ軽藐(軽蔑)することある時、その知らせをなさは、いずれも互に助け、あるいは中に入り程よく取扱ひ、友誼を敦くすへし」であり、これは明らかに一種同盟規定であった伊達宗城第2条を完全に拒否し列強はすでに日清同盟疑っている以上、かれらを刺激するような文言を記すべきではないとしてさかんに列強嫌疑かけられないようにすべきことを主張した。これに対しは、西洋からの嫌疑それほど怖ろしいというのならば、伊達全権はむしろ清国に来なければよかったのであり、そうした方が日本欧米接しやすかろう応じた清国側対案充分に準備されたものであり、交渉術も日本側より巧みであった。 これについては日清双方意見互いに平行線たどった伊達全権は、日米間ないし清米間で結ばれた条約日米和親条約望厦条約)における類似する条項同様の解釈、すなわち平時における紛争解決友好国のよしみで調停する程度のものにすぎないという解釈ほどこしたうえで、これに同意した。こうして、明治4年7月29日1871年9月13日)、末永く両国友好謳った対等条約日清修好条規結ばれたのである調印者 欽差全権大臣従二位大蔵卿 伊達宗城 欽差全権大臣 直隷総督 李鴻章

※この「本交渉」の解説は、「日清修好条規」の解説の一部です。
「本交渉」を含む「日清修好条規」の記事については、「日清修好条規」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「本交渉」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「本交渉」の関連用語

本交渉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



本交渉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日清修好条規 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS