最後の遠征と死
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「アーネスト・シャクルトン」の記事における「最後の遠征と死」の解説
詳細は「シャクルトン=ローウェット遠征」を参照 シャクルトンは講演旅行(英語版)に戻り、1919年12月にエンデュアランス遠征についての自書『South(邦題:エンデュアランス号奇跡の生還)』を出版した。本の売れ行きは良かったが、遠征の資金提供者の一人サー・ロバート・ルーカス=トゥースの遺言執行人が返済を求めてきたため、映画化権を含む同書の権利を全て譲渡することとなり、シャクルトンは印税を一切受け取れなかった。1920年には講演旅行を辞め、最後の遠征の可能性を考えるようになった。彼は広大な未探検地域である北極のボーフォート海へ行くことを真剣に考え、カナダ政府からの計画に関心を高めた。ダリッジ・カレッジ時代の学友のジョン・クウィーラー・ローウェット(英語版)が出した資金で、125トンのノルウェー建造の捕鯨船「フォカI号(Foca I)」を購入し、「クエスト号(英語版)」と改名した。計画は変更され、行先は南極となり、シャクルトンは「海洋学と亜南極の探検旅行」と定めた。探検のゴールは明確ではなかったが、南極大陸の周航とツアナキ島のように「失われた」亜南極の島々の調査も目的として言及していた。 ローウェットは、シャクルトン=ローウェット遠征と呼ばれるようになる遠征全体の資金を出すことに同意し、遠征隊は1921年9月24日にイギリスを出発した。9月16日にシャクルトンは、ハリー・グリンデル・マシューズが開発したサウンド・オン・フィルム(英語版)で別れの挨拶を記録。マシューズはこれが最初の「トーキー」であると主張していた。 かつての隊員の何人かはエンデュアランス遠征の給料を全て受け取っていなかったが、彼らの多くが元「ボス」と契約した。遠征隊がリオデジャネイロに着くと、シャクルトンは心臓発作らしきものに襲われた。彼はちゃんとした医師の診察を受けるのを拒み、クエスト号は南へ旅を続け、1922年1月4日にサウスジョージア島に到着した。 翌未明、シャクルトンは遠征隊の医師アレクサンダー・マクリン(英語版)を船室へ呼び、背中の痛みと不快感を訴えた。マクリンの報告によれば、彼はシャクルトンへ物事をやり過ぎるので「もっと普通の生活を過ごすよう」努力すべきだと伝えたところ、シャクルトンは「君は私にいつも何かを止めるように言うが、何を止めるべきだと言うのか?」と尋ねた。マクリンは「真っ先に酒ですよ、ボス」と返した。その数分後、1922年1月5日午前2時50分に、シャクルトンは致命的な心臓発作に襲われた。 検死を行ったマクリンは、死因は「衰弱している時に過度のストレスを受けて」悪化した冠状動脈のアテロームであると診断した。遺体は、元・帝国南極横断探検隊員のレオナルド・ハッセー(英語版)がイギリスへ持ち帰ることを申し出た。しかし彼が帰路モンテビデオに寄港中、妻のエミリーから夫の遺体をサウスジョージア島に埋葬してほしいとのメッセージを受け取った。ハッセーは蒸気船ウッドビル(英語版)で遺体とともにサウスジョージア島へ戻り、1922年3月5日、同島のグリトビケン墓地に、エドワード・ビニー(英語版)が司祭したルーテル教会(英語版)での短い葬儀の後、埋葬された。マクリンは日記にこう記した「文明社会から遠く離れ嵐の海に囲まれた島で一人孤独に、最も偉大な冒険の地で眠ることが『ボス』が望んでいたことだろうと、私は思う」。 2011年11月27日、フランク・ワイルドの遺灰がシャクルトンの墓の右側に埋葬された。その粗削りの花崗岩の碑には「フランク・ワイルド 1873-1939、シャクルトンの右腕」と刻まれた。 1907-09年の遠征の医師であったエリック・マーシャル(英語版)の日記の研究によれば、シャクルトンは先天性心疾患の心房中隔欠損(「心臓内に穴がある」)であり、それが彼の健康問題の原因であったかもしれないとほのめかしている。
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