明治維新から終戦までとは? わかりやすく解説

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明治維新から終戦まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:25 UTC 版)

山梨県」の記事における「明治維新から終戦まで」の解説

藤村紫朗 睦沢学校(現・藤村記念館慶応4年明治元年1868年3月甲府城入った新政府板垣退助率い甲州街道軍と、近藤勇率い旧幕府軍の甲陽鎮撫隊新選組)が勝沼甲州市一部大善寺激突した甲州勝沼の戦い)。旧幕府軍は駆逐され、甲州鎮撫府が設置された。 同年10月19日旧暦9月4日)、甲斐国内に府中県県庁所在地山梨郡甲府)、市川県石和県設置され12月11日旧暦10月28日)にこれら3県を統合して甲斐府が設置された。明治2年1869年8月27日旧暦7月20日)、「府」の呼称京都府東京府大阪府限定されたことから、甲斐府は甲府県と改称した明治3年1870年5月田安領を併合し明治4年1871年8月29日旧暦7月14日)の廃藩置県後甲府県は存続したが、同年10月末(旧暦)に始まる第1次府県統合により、旧韮山代官所引き継いだ韮山県甲斐国管轄区域などを統合して12月31日旧暦11月20日)に甲斐国全域管轄区域とする山梨県発足した県庁所在地引き続き山梨郡甲府初代県令には土肥実匡が任ぜられた。1873年明治6年)に着任した藤村紫朗殖産興業政策により、製糸業勧業道路金融機関整備が行われた。特に青梅街道改築など道路整備推し進めたことから、藤村は「道路県令」とも呼ばれている。 1909年明治42年)には陸軍甲府連隊歩兵第49連隊)が設置された。太平洋戦争中には疎開地でもあったが、1945年昭和20年7月には甲府空襲遭い市街灰燼帰したまた、明治時代には、1882年1885年1907年1910年大水害に見舞われ大きな被害受けた。これには、地形的理由だけでなく、林野強権的官有化による里山荒廃急激な開発という人為的理由一因した。1873年地租改正後、林野官民区分が行なわれ、県下入会林野99%以上が1881年官有とされ、1889年には皇室財産となった。これにより地元民草木採取際し面倒な手続き強いられることとなり、盗伐山火事頻発して里山荒廃繋がった。さらに、明治期日本主要産品である絹織物生産のためにの餌となる桑畑開墾や、薪炭材調達目的として山林徹底的に伐採された。こうしたことが大災害繋がったとして、1911年御料林は県に無償返還され恩賜県有となり、入会権などは官有前に戻された。

※この「明治維新から終戦まで」の解説は、「山梨県」の解説の一部です。
「明治維新から終戦まで」を含む「山梨県」の記事については、「山梨県」の概要を参照ください。

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