明星影片公司
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1922年、張と鄭正秋は周剣雲、鄭鷓鴣、任矜萍と共に明星影片公司を設立する。張は西洋に影響されたビジネスマンとして利益を最重視した。この点で鄭は、社会変革や道徳啓発における映画の役割に重きを置く貴族階級出身の脚本家であり、張と立場を異にする。この会社の初期の映画は『滑稽大王游滬記』(1922年)のように主に娯楽重視だったが、張はしばしば鄭の教訓主義的な映画も撮っている(1923年の『孤児救祖記』など)。張の『火焼紅蓮寺』(1928年)が驚くべきヒットとなり、その後の3年間で17もの続編を作った。同作は武侠映画の始まりとなり、競合他者も類似作品を立て続けに作った。 1928年、明星は株式会社となり、政府に株式公開の登録をした。張は17年間にわたり社長と映画監督を務め、会社は中国最大の映画製作会社となった。張は1931年、洪深(英語版)の協力の下、中国初のトーキー映画『歌女紅牡丹』を監督した。 1930年前半、満州事変や第一次上海事変は中国内で国家の危機との意識をもたらした。張による経営下の明星は左派に転向。左翼的な作家を多数雇い、彼らは『脂粉市場』(1933年)、『圧歳銭』(1937年)などの作品の脚本を書いた。 1937年秋、第二次上海事変が勃発し日本軍が上海を占領。明星のスタジオは日本軍の爆撃で壊滅した。張はいくつかの設備を持ち出し国華影片公司に参加したが、明星が再起することはなかった。
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