日米友好への尽力とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日米友好への尽力の意味・解説 

日米友好への尽力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「日米友好への尽力」の解説

三木国会議員になった1937年昭和12年)の12月12日には、日本軍南京攻撃の際、南京から脱出する外国人乗せたパナイ号が撃沈され、日本側が陳謝賠償行ったパナイ号事件発生するなど、日米関係悪化が目立つようになっていた。米国留学経験がある三木にとって、日米関係悪化憂慮すべき事態であった三木によれば当時駐日大使勤めていたジョセフ・グルーから日米関係憂慮する手紙受け取ったという。 日米関係緊迫していく情勢下、三木日米友好図り様々な活動行った。まず政友会植原悦二郎岩瀬亮とともに対米同志会結成した。会の趣旨は、「日華事変アメリカ国民中立守っていることに、日本国民から感謝の意を示す」とし、対米同志会1938年昭和13年2月19日日比谷公会堂貴族院議員今井五介座長として日米親善国民大会開催した大会で賀川豊彦菊池寛対米非戦論者の陸軍中将原口初太郎らが日米友好親善に関する演説行った三木大会の席で「日米戦って両国とも何を得ようというのか、まず石油が無い日本がどうして長期戦戦えるのか、アメリカ一死報国の念に燃え日本軍相手にすれば多大な犠牲を出すことになる、日米両国戦争訴えず、平和的に対立和らげていくよう努力することこそ、両国政治家責務ではないか」という趣旨演説行った主張しているが、実際どのような演説が行われたのかについては、戦災などで記録失われている。研究者中には1938年時点では、日米関係緊迫していたとは言いがたく、三木主張しているような内容演説実際行ったかについては疑問があるとの意見がある。1939年昭和14年)には、枢密顧問官金子堅太郎会長とした日米同志会結成され三木専務理事となった三木日米同志会日米戦争回避活動続け、特に衆議院議員安倍寛と共に各地日米非戦訴えて回った1939年2月26日日米関係改善に力を尽くし米国側にも信頼されていた駐米大使齊藤博死去した米国側は斎藤の死を悼み海軍巡洋艦アストリア号で遺骨日本送り届けることになった日本側は、緊張する日米関係改善きっかけとすべく、三木今井五介植原悦二郎松田竹千代岩永裕吉など貴族院議員衆議院議員らが協議して金子会長とする米艦アストリア国民歓迎委員会結成され4月24日早大大隈講堂歓迎会が行われた。また三木は、遺骨帰還模様から歓迎会様子ニュース映画にするため尽力した南旺映画委嘱制作されニュース映画は、日本語版ばかりでなく英語版作成され6月12日には日本在住米国人招き帝国ホテルにて試写会晩餐会行い、更にアストリア号のターナー艦長と、米国大統領フランクリン・ルーズベルト英語版ニュース映画贈呈することになった

※この「日米友好への尽力」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「日米友好への尽力」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日米友好への尽力」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日米友好への尽力」の関連用語

日米友好への尽力のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日米友好への尽力のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三木武夫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS