日米友好への尽力
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三木が国会議員になった1937年(昭和12年)の12月12日には、日本軍が南京攻撃の際、南京から脱出する外国人を乗せたパナイ号が撃沈され、日本側が陳謝と賠償を行ったパナイ号事件が発生するなど、日米の関係悪化が目立つようになっていた。米国留学の経験がある三木にとって、日米関係の悪化は憂慮すべき事態であった。三木によれば当時、駐日大使を勤めていたジョセフ・グルーから日米関係を憂慮する手紙を受け取ったという。 日米関係が緊迫していく情勢下、三木は日米友好を図り様々な活動を行った。まず政友会の植原悦二郎、岩瀬亮らとともに対米同志会を結成した。会の趣旨は、「日華事変でアメリカ国民が中立を守っていることに、日本国民から感謝の意を示す」とし、対米同志会は1938年(昭和13年)2月19日、日比谷公会堂で貴族院議員の今井五介を座長として日米親善国民大会を開催した。大会では賀川豊彦、菊池寛、対米非戦論者の陸軍中将原口初太郎らが日米友好親善に関する演説を行った。三木は大会の席で「日米が戦って両国とも何を得ようというのか、まず石油が無い日本がどうして長期戦を戦えるのか、アメリカも一死報国の念に燃える日本軍を相手にすれば多大な犠牲を出すことになる、日米両国が戦争に訴えず、平和的に対立を和らげていくよう努力することこそ、両国の政治家の責務ではないか」という趣旨の演説を行ったと主張しているが、実際どのような演説が行われたのかについては、戦災などで記録が失われている。研究者の中には1938年時点では、日米関係が緊迫していたとは言いがたく、三木が主張しているような内容の演説を実際行ったかについては疑問があるとの意見がある。1939年(昭和14年)には、枢密顧問官の金子堅太郎を会長とした日米同志会が結成され、三木は専務理事となった。三木は日米同志会で日米戦争回避の活動を続け、特に衆議院議員の安倍寛と共に、各地で日米非戦を訴えて回った。 1939年2月26日、日米関係の改善に力を尽くし、米国側にも信頼されていた駐米大使、齊藤博が死去した。米国側は斎藤の死を悼み、海軍巡洋艦アストリア号で遺骨を日本に送り届けることになった。日本側は、緊張する日米関係改善のきっかけとすべく、三木や今井五介、植原悦二郎、松田竹千代、岩永裕吉など貴族院議員、衆議院議員らが協議して、金子を会長とする米艦アストリア号国民歓迎委員会が結成され、4月24日に早大の大隈講堂で歓迎会が行われた。また三木は、遺骨帰還の模様から歓迎会の様子をニュース映画にするため尽力した。南旺映画に委嘱制作されたニュース映画は、日本語版ばかりでなく英語版も作成され、6月12日には日本在住の米国人を招き帝国ホテルにて試写会と晩餐会を行い、更にアストリア号のターナー艦長と、米国大統領フランクリン・ルーズベルトに英語版のニュース映画を贈呈することになった。
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