日米円・ドル委員会報告書
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「オフショア市場」の記事における「日米円・ドル委員会報告書」の解説
1968年、シンガポールがオフショア市場となったころに、東京オフショア市場構想は都市銀行から提出されていた。資本の自由化の途上で、1973年1月に海外経済協力基金総裁の細見卓海が東京IBFの私案を発表し、メガバンクの一部と在日外銀の支持を得た。さまざまに反対されて、私案は1983年秋からの日米円・ドル委員会でも議論されなかった。 しかし、同委員会は私案反対論者のユーロ円取引拡大が望ましくないという根拠を霧散させた。東京オフショア市場は東京のユーロ市場であり、そこで取引される円は規制がないという意味でユーロ円であった。 1983年11月、中曽根康弘とロナルド・レーガン両首脳が東京で会談し、これをきっかけに同委員会(正式名称「日米共同円・ドル・レート、金融・資本市場問題特別会合」)が設けられた。同委員会作業部会は、1984年2月から5月にかけて、大場智満財務官とスプリンケル財務次官を共同議長に攻防が展開された。5月29日、竹下登蔵相とドナルド・リーガン財務長官の署名で「報告書」が両首脳に提出された。報告書の骨子は、①大口から順次預金金利の自由化を図る、②金融・資本市場の開放、③円の国際化、以上の3点であった。日本政府は同報告書の中で、②の東京証券取引所会員権について不介入の立場を示していた。しかし転機が訪れた。1984年9月に太平洋証券が発足を決めたので会員権が一つ空いた。12月13日、リーガンのメリルリンチが東証会員権取得を文書で希望してきた。このときはウツミ屋証券が16億円を払って取得した。するとアメリカ政府は会員枠自体の開放を迫った。1985年5月初めに開かれたボン・サミットの準備会合で、竹下蔵相がジェームズ・ベイカー財務長官に「対外開放」の趣旨を伝えた。9月26日の臨時会員総会で、会員枠を10社増やすことが正式に決まった。メリルリンチ、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、ジャーディン・フレミング、ヴィッカース・ダ・コスタ(Vickers da Costa)、そしてマーチャント・バンク(merchant bank)のSGウォーバーグ(S. G. Warburg & Co.)の外国証券6社が新会員となった。国内証券4社は平岡証券、今川証券、岡地証券、東海証券であった。これは会員権の第一次開放であって、序の口であった。
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