日本時代と、日本との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/08 04:42 UTC 版)
「ジョン・ワデル」の記事における「日本時代と、日本との関わり」の解説
1882年7月、日本の明治政府に招かれ、お雇い外国人として東京大学理学部(当時)にて4年間、土木工学の講義を行った。その間、ワデルは代表作となる著書を2冊上梓している。 当時の本州の鉄道はイギリスの流儀で造られていたが、1885年(明治18年)、ワデルは横浜で刊行されていた英字新聞の紙上で「経験則から作られるイギリス製橋梁に対して、アメリカ製橋梁は理論で作られている。今後はアメリカ製を採用すべきである」旨の議論を提起する。イギリス側は、チャールズ・ポーナル(1873年建築師長として来日、以後橋梁設計のほとんどを手がけた。1896年帰国)が反論したが、鉄道の発展とともにポーナルが設計した橋梁の設計荷重では不足するようになり、ポーナルが帰国したのち、次々とアメリカ製橋梁に架け替えられていった。 1897年(明治30年)、岩越鉄道岩越線(現在の磐越西線)が郡山駅から喜多方駅の区間の建設を開始した。喜多方以西では、流量が多く水深も深い阿賀野川(阿賀川)を数度に渡り渡河する必要があったため、すでにアメリカに帰国し、名声を得ていた(後述)ワデルに調査を依頼した。ワデルは、カンチレバー式架設工法(張出し式架設工法)、すなわち中央スパンの両側のスパンをアンカーとして中央スパンとなるべき桁を張り出し、中央で接合する方法の見通しを立てており、これを提案した。1913年(大正2年)、径間300フィート(90メートル)の阿賀野川釜ノ脇橋梁(荻野駅 - 尾登駅間)が竣工。ワデルの提唱から15年が経過していた。この阿賀野川釜ノ脇橋梁は、日本で初めてこの工法で架設された橋梁であった。
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