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日本内燃機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/08/10 12:29 UTC 版)

日本内燃機は、1932年(昭和7年)に設立された日本の自動車メーカーで、現在の日産自動車系列のエンジン製造会社である日産工機の前身企業である。

1930年代から1950年代にかけ、「くろがね」のブランドでオート三輪トラック市場の代表的メーカーとして活動したことで後世に知られる。


  1. ^ ダイハツはいち早く1946年、マツダはそれを追って1948年から、各々生産体制の強化・合理化を図り、本格的な流れ作業方式へ移行した。ダイハツは1951年時点で月産約1,500台に達してなおも増加、マツダは1953年時点で月産3,000台体制を実現した。また両社は戦前からのディーラー網の拡張・再編を急ぎ、いずれも1954年時点で、全都道府県をほぼ網羅するディーラーの整備を達成した。同年の「くろがね」代理店は全国46都道府県のうち26都道府県に所在するに過ぎず、中国四国九州地方はそれぞれ広島県香川県福岡県のディーラーで全域をカバーさせるという手薄ぶりであった(常見「小型三輪自動車産業の競争」1997)。
  2. ^ 常見によれば「くろがね」は月賦販売導入でも出遅れていたという。経営規模零細な個人・中小企業は資金繰りの厳しいことが多く、設備投資に際し分割払い可能であることは選択の有力な動機となる。
  3. ^ ただし、五島昇は「伝統ある自動車メーカーだが、日本生命保険などが手に負えず、(昭和)二十九年に父がしぶしぶ預かった」と回顧している(「私の履歴書」1989)。五島慶太は相前後して東洋精糖東亜石油、日東タイヤといった製造業に触手を伸ばしたが、慶太の死後東急を継いだ五島昇はこれらからことごとく手を引いている。
  4. ^ マツダはオート三輪最終期までボトムリンク式サスペンションを用い続けたが、これはくろがねと違い、強度確保の優位性を選択した意図的なものであった。対してダイハツはテレスコピック・サスペンションを1950年代後期以降のオート三輪全モデルに導入しており、これはダイハツとマツダのポリシーの相違である。
  5. ^ 1950年代末期当時、日本での自動車用空気ばねは、乗り心地を重視する大型バスや、荷痛みを防ぐ効果のある一部の大型トラックでは既に採用例があったが、小型トラックではほとんど意味のない高コスト装備であった。また「ノーバ」の外装も、当時の高級乗用車並みの4灯式ヘッドライトやツートンカラー、メッキパーツの多用など、装飾過多気味であった。当時の多くの貨物車ユーザーは、酷使に耐える頑丈さと購入しやすい価格を優先して求めており、市場ではやはり1959年にモデルチェンジしたシンプルかつ廉価な「トヨエース」への人気が継続していた。


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