日本人との交流
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「カール・ヨハン・マキシモヴィッチ」の記事における「日本人との交流」の解説
マキシモヴィッチの引き継いだシーボルトからの流れは、明治期の矢田部良吉、松村任三、宮部金吾、伊藤篤太郎といった植物学者にも当然のように知られており、それゆえ日本の植物学においてたいへん重要な人物とみなされていた。草創期の日本の植物学者は、未知種や新種と思われる植物を採集すると真っ先にマキシモヴィッチの元へ標本を送り、その種同定を依頼していた。マキシモヴィッチ自身も豊かな知識と現地調査の経験を生かし、彼らに適切な助言と指導を行い、結果として日本の植物学のレベルは著しく向上することになる。 またロシアに留学した植物学者、田代安定についてはサンクトペテルブルクで会ってその博識に驚き、その場で科学アカデミーの会員に推薦している。
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日本人との交流
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1918年、成瀬正一が日本人として初めてロランの許を訪れたとされる。 1925年、高村光太郎、倉田百三、尾崎喜八、片山敏彦、高田博厚らが『ロマン・ロラン友の会』を作り、一部はロランと文通した。1928年には中村星湖が、1929年には片山敏彦や松尾邦之助が、ヴィルヌーヴのロラン邸を訪ねた。 1931年、片山敏彦に連れられた高田博厚がヴィルヌーヴのロラン邸を訪ねた際、彫刻作品の写真を見せると、後日ロランから片山宛に「私はこの15年誰にも自分の像を作ることを断ってきたが、彼には作ってほしい」という手紙をもらう。同じ年の11月、マハトマ・ガンディーがロンドンの会議の帰途ロマン・ロラン邸に一週間滞在することになった際、高田博厚は素描のため、旅費まで用意された上でロラン邸に招かれ、ロマン・ロランとマハトマ・ガンディーの会談に同席した。 1937年、倉田百三の『出家とその弟子』の仏語訳を松尾邦之助らが出版した時は、ロランが序文を寄せた(みすず書房第3次全集、第43巻に訳文を収録)。 1971年、仏文学者の宮本正清がロマン・ロラン研究所を設立し、現在に至っている。 2017年、埼玉県東松山市で開催された『高田博厚没後30年記念イベント「思索の灯」』において、小樽商科大学名誉教授の高橋純が、フランス国立図書館の未公開文書から発見したロマン・ロラン=高田博厚往復書簡に基づく講演を行い、証人がいないとされていた1931年のロマン・ロランとマハトマ・ガンディーとの会談に高田が同席していたことが証明された。
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