新体制の模索と鎌倉府成立
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建武2年(1335年)7月、中先代の乱の際に足利直義は成良親王を京都に送還し、鎌倉将軍府は崩壊する。乱の鎮圧のために、足利尊氏は後醍醐天皇の許可なく京都を離れ、両者が対立する契機ともなった。関東の安定化のためには、鎌倉にいた尊氏の子・義詮を中心とする新たな体制が必要となった。直義は鎌倉に幕府を設置し、京都の朝廷から自立性の強い体制を構築することで、この問題を解決しようとしたが、建武3年(1336年)11月、京都に室町幕府が設置されると、新しい方策が必要となる。直義は、尊氏の分身である義詮を鎌倉殿とし、信頼する上杉憲顕を関東管領とした体制を発足させた。 貞和5年(1349年)9月、京都に戻る足利義詮の代わりに弟・基氏が鎌倉に下向し、初代鎌倉公方となった。このときを鎌倉府成立とすることが多い。なお前述した室町幕府設置の建武3年(1336年)、幕府は義詮のもとに上杉憲顕・高師冬を関東管領として派遣して、新しい体制で北畠顕家軍の攻撃に対処したが、このときを鎌倉府の成立とする考え方もある。 初期の鎌倉府の権限は軍事指揮権が中心であり、領域支配に必要な所領の安堵権や宛行権、裁判権は京都の幕府にあった。しかし、尊氏は観応の擾乱で弟の直義と戦ったのち、文和2年(1353年)7月まで鎌倉に滞在し、直義派を粛正した上で、所領の安堵権や宛行権、裁判権を基氏に付与して京都に戻った。統治の困難な関東では、鎌倉府に権限を集中する必要があったためである。統治の困難さについては、延文4年(1359年)、関東管領・畠山国清が関東の武士を率いて南朝勢と戦った際、武士たちの不満が大きかったため、国清は関東管領職を失って追放された事例からも伺える。尊氏は鎌倉府を幕府の地方統治機関に位置づけようとしたが、尊氏死後の貞治2年(1363年)7月、鎌倉公方・足利基氏は尊氏の構想を否定し、観応の擾乱で粛清された直義派の上杉憲顕を関東管領に復帰させた。その結果、直義の構想に近い鎌倉府を目指すことになる。
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