新体制の模索と鎌倉府成立とは? わかりやすく解説

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新体制の模索と鎌倉府成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 05:49 UTC 版)

鎌倉府」の記事における「新体制の模索と鎌倉府成立」の解説

建武2年1335年7月中先代の乱の際に足利直義成良親王京都送還し鎌倉将軍府崩壊する。乱の鎮圧のために、足利尊氏後醍醐天皇許可なく京都離れ両者対立する契機ともなった関東安定化のためには、鎌倉にいた尊氏の子義詮中心とする新たな体制が必要となった直義鎌倉幕府設置し京都朝廷から自立性の強い体制構築することで、この問題解決しようとしたが、建武3年1336年11月京都室町幕府設置されると、新し方策が必要となる。直義は、尊氏分身である義詮鎌倉殿とし、信頼する上杉憲顕関東管領とした体制発足させた。 貞和5年1349年9月京都に戻る足利義詮代わりに弟・基氏が鎌倉下向し、初代鎌倉公方となった。このときを鎌倉府成立とすることが多い。なお前述した室町幕府設置建武3年1336年)、幕府義詮のもとに上杉憲顕高師冬関東管領として派遣して新し体制北畠顕家軍の攻撃対処したが、このときを鎌倉府成立とする考え方もある。 初期鎌倉府権限軍事指揮権中心であり、領域支配必要な所領安堵宛行裁判権京都幕府にあった。しかし、尊氏観応の擾乱で弟の直義戦ったのち、文和2年1353年7月まで鎌倉滞在し直義派を粛正し上で所領安堵宛行裁判権を基氏に付与して京都戻った統治困難な関東では、鎌倉府権限集中する必要があったためである。統治困難さについては、延文4年1359年)、関東管領畠山国清関東武士率いて南朝勢と戦った際、武士たちの不満が大きかったため、国清は関東管領職を失って追放され事例からも伺える。尊氏鎌倉府幕府地方統治機関位置づけようとしたが、尊氏死後の貞治2年1363年7月鎌倉公方足利基氏尊氏構想否定し観応の擾乱粛清され直義の上憲顕を関東管領復帰させた。その結果直義構想に近い鎌倉府目指すことになる。

※この「新体制の模索と鎌倉府成立」の解説は、「鎌倉府」の解説の一部です。
「新体制の模索と鎌倉府成立」を含む「鎌倉府」の記事については、「鎌倉府」の概要を参照ください。

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