文化・教養
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:09 UTC 版)
近江の地は、庄屋郷士層の出である野洲郡の北村季吟が幕府歌学方に用いられ、近江蕉門の隆盛 や明治初期には香川景樹の門下の渡忠秋が生まれるなど、連歌・俳諧が盛んであった。画壇においても、高田敬輔・横井金谷・岸竹堂を初めとした絵師が生まれると共に、近江蕪村と呼ばれた紀楳亭や円山応挙が足繁く訪れ、豪商・庄屋層と深く交流した。書家も明治の三筆の内、日下部鳴鶴・巖谷一六の二人は近江の生まれであり、有力な寺社や富裕な商人等に支えられ、京と一体をなす文化が存在していた。 また、近江聖人と呼ばれた中江藤樹・雨森芳洲・沢村琴所などの儒学者を生み、熊沢蕃山も現近江八幡市周辺に一時期住んでいた。近江の庄屋・豪商の子弟は、これら一流の学者の流を汲む近隣の私塾に入塾し、学問を行うことが普通であった。幕末野洲郡吉身村(現守山市)の庄屋の子弟で後に衆議院議員となった岡田逸治郎は幼少時森唯楽軒の私塾に通い、同速水村の出身で後に県会議員となった今川正直も膳所藩儒学者に漢学を師事したことが記録されている。西川吉輔の様に豪商出身の国学者も輩出した。土川平兵衛は中江藤樹に信服し陽明学を好んで学んでいたと伝えられている。一揆の原因となった検地を行う前に見分役人は各村に通達を出し、近江では「かれこれ申し立てる悪弊があるが、今回は絶対に認めない」旨記し ており、弁がたつ近江庄屋層の存在を明示している。
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