雨森芳洲とは? わかりやすく解説

あめのもり‐ほうしゅう〔‐ハウシウ〕【雨森芳洲】

読み方:あめのもりほうしゅう

[1668〜1755]江戸中期儒学者近江(おうみ)の人。名は俊良、字(あざな)は伯陽朝鮮語中国語をよくし、対馬(つしま)藩に仕えて文教外交活躍。著「橘窓文集」「たわれ」など。


あめのもりほうしゅう 【雨森芳洲】


雨森芳洲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 04:37 UTC 版)

雨森 芳洲(あめのもり ほうしゅう、寛文8年5月17日1668年6月26日) - 宝暦5年1月6日1755年2月16日[1])は、江戸時代中期の儒者は俊良、のち誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森東を名乗った。中国語朝鮮語に通じ、対馬藩に仕えて李氏朝鮮との通好実務にも携わった[2]。新井白石・室鳩巣ともに木下門下の五先生や十哲の1人に数えられた。


注釈

  1. ^ この本は、明治半ばまで、主要な入門書として、広く使われた。
  2. ^ 正使は趙泰億(韓国語)
  3. ^ 正使は洪致中(韓国語)
  4. ^ 文禄・慶長の役以来、朝鮮側は日本使節の漢城府(現ソウル)上京を禁止しており、こういった祝賀使節も釜山止まりだった。
  5. ^ https://collection.kyuhaku.jp/souke/introduce/02_4.html 九州国立博物館 対馬宗家文書 松平信綱の書状の紹介

出典

  1. ^ 雨森芳洲』 - コトバンク
  2. ^ 『朝鮮人物事典』120頁外側段落の1行目~4行目
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 54頁。
  4. ^ 『朝鮮人物事典』120頁外側段落の9行目~12行目
  5. ^ 『人物でつづる被差別民の歴史 続』32頁
  6. ^ 『朝鮮人物事典』外側段落の13行目~16行目
  7. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
  8. ^ 申維翰 姜 在彦訳注 『海遊録―朝鮮通信使の日本紀行』付録「日本聞見雑録」、平凡社〈東洋文庫〉、1974年1月、ISBN 978-4-582-80252-8
  9. ^ 申維翰 姜 在彦訳注 『海遊録―朝鮮通信使の日本紀行』平凡社〈東洋文庫
  10. ^ a b 信原修「誠信と屈折の狭間―対馬藩儒雨森芳洲をめぐって」『総合文化研究所紀要』第6巻、同志社女子大学総合文化研究所、1989年
  11. ^ a b 鄭英實『18世紀初頭の朝鮮通信使と日本の知識人』2011年
  12. ^ 『朝鮮人物事典』外側段落の17行目~21行目
  13. ^ 『朝鮮人物事典』の内側段落の1行目~6行目


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