政治的な指名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:45 UTC 版)
「ジェイムズ・ラッセル・ローウェル」の記事における「政治的な指名」の解説
ローウェルは1874年にハーバードの教授職を辞職したが、1877年まで教育を続けるよう説得された。ローウェルが初めて政治の世界に入ったのは1876年だった。その年、オハイオ州シンシナティで開催された共和党全国大会の代議員となり、大統領候補者ラザフォード・ヘイズのために演説した。ヘイズが候補指名を勝ち取り、最後は大統領にも当選した。1877年5月、『ビッグロー・ペーパーズ』の称賛者であるヘイズ大統領が、ウィリアム・ディーン・ハウエルズをローウェルの所に派遣し、オーストリアあるいはロシアの大使に提案するという手書きのメモを持たせていた。ローウェルは辞退したが、スペイン文学に興味を持っていることを伝えた。その後で駐スペイン公使を提案され受諾した。年給12,000ドルだった。ローウェルは1877年7月14日にボストンを出港し、1年から2年行ってくるつもりだったが、帰って来たのは1885年になっていた。ノルウェーのバイオリスト、オーレ・ブルがその期間の一部でエルムウッドを借りていた。スペインのマスコミはローウェルのことを「ホセ・ビゲロー」と呼んでいた。ローウェルはその政治的役割に十分備えており、法律の訓練も受けていて、さらに複数の言語を読むことができた。スペインにいる間には社交付き合いでトラブルがあったが、アメリカの政治ボスにユーモアのある伝言を送ることで自分も楽しみ、その伝言の多くは後に集められ、『スペインの印象』と題して死後出版された。1878年遅く、スペイン・アカデミーがローウェルを客員に選出し新しい辞書の編纂に寄稿することを認めたので、その社交生活も改善された。 1880年1月、ローウェルは駐イギリス大使に指名されたことを知らされた。その指名は、ローウェルに知らされないまま1879年6月には決まっていた。年給は17,500ドルとなり、3,500ドルの経費も認められた。その任にある間に、病気とされる牛の輸入を推進し、純粋食品薬品法の前身となる推薦を行った。ヴィクトリア女王が「ローウェル氏ほど多くの興味を作り、尊敬を勝ち取った」大使は見たことがなかったとコメントした。ローウェルは、チェスター・A・アーサー大統領の任期が終わる1885年春までこのイギリス大使を務めた。ただし妻の健康が悪くなっていた。ローウェルはイングランドでその著作について良く知られており、そこに居る間に、仲間の著作家ヘンリー・ジェイムズと親しくなった。ジェイムズはローウェルのことを「群を抜いたアメリカ人」と呼んだ。まただいぶ前にレズリー・スティーヴンとも親しくなっており、その娘で後に作家となったヴァージニア・ウルフの名付け親になった。ローウェルの人気が高かったので、グロバー・クリーブランド大統領に呼び戻された後で、オックスフォード大学から教授の申し出があったが、辞退した。 ローウェルの2番目の妻フランシスは1885年2月19日、まだイングランドにいる間に死去した。
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