摂津の六斎念仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 04:00 UTC 版)
兵庫県阪神戸市から阪神間、さらに大阪府北部には戦前まで多くの六斎念仏が行われていた。現在までそれを伝える講や組はほとんど消滅したものの、むかしは盆のころにはいたるところから鉦の音がきこえたという。なお、摂津地方では、六斎念仏の異称を「ひっつんつん」「すっとんとん」などとも呼ぶ。これは六斎念仏の練習に際して太鼓の打ち方をあらわす擬音から来ており、福島県浜通り及び長崎県平戸島に分布する民俗芸能「じゃんがら」が鉦の叩く擬音であることと同様の名称の由来である。 このように摂津の六斎念仏は太鼓を主体とする六斎念仏がよく伝わっていたようであり、「太鼓念仏」と呼ばれるものも多い。 「太鼓念仏」が摂津の六斎念仏の主体となったことを示すのは、弘化四年に大坂天王寺村西方寺が東町奉行所に宛てた文書からも伺える。 諸国より来訪する尼僧が、唄念仏・和讃・詠歌・踊念仏・夜念仏など、多くの念仏の形態を伝えていた事を述べたのち、 尤も六斎念仏と申候儀ハ、例年七月盂蘭盆会之砌、太鼓念仏又ハ新亡有方之家々ニ於て、念仏修行仕候事 と記される。他の地域において六斎念仏のバリエーションとして行われる上記の唄念仏や和讃、踊念仏、夜念仏などは六斎念仏とはみなされず、六斎念仏は盂蘭盆に「太鼓念仏」を行い、また新盆の家で念仏が行われたというため、摂津の六斎念仏はもっぱら太鼓を用いたものであったことが主体とされていたことが伺える。 ところで、この地に六斎念仏が行われていたことを示す最初の史料は、戦国時代の公家山科言継によって書かれた『言継卿記 』である。ここには、 於真如堂、為光源院殿御訪、京辺土、摂津池田衆、坂本衆、六斎念仏大施餓鬼有之、十六七ヶ所之衆先別々念仏申之、次一度に又念仏有之、鉦鼓之衆二千八百人云々、貴賎男女之群衆七八万人可有之欠之由各申之、四方土居無其所、先代未聞之群衆也、見物了 との一説が見える。真如堂(現京都市左京区)で足利義輝の施餓鬼供養が行われた折には、京都近隣および、摂津国から池田衆や坂本衆 六斎念仏衆が集結したことが記され、その芸態は鉦及び太鼓を打つものであり、今まで言継がみたこともない群衆であったと伝える。戦国時代までには少なくとも摂津で六斎念仏が行われており、時継が観覧した時代に在っては、多くの集団が京都に出仕するだけの組織が形成されており、他の六斎衆とは、「一度に又念仏」を行うことができるような統制された曲を有していたことがわかる。 このように、摂津の六斎念仏は、戦国時代にあっては京都との深い関係を築きながら組織性を形成していた。しかし、近世に大坂天王寺村の西方寺が六斎念仏衆を掌握するようになり、その性質や信仰形態が京都のものとは大きく異なる変化をみせるようになった。 近年までおこなわれた六斎念仏は、同行と呼ばれる送葬に与る人々によって組織された六斎念仏講も少なくなく、死者供養の役割を多く残しており、加茂の六斎念仏(ひっつんつん)は空也講によって組織され、京都の空也堂との関係を保持しており、さまざまな六斎念仏が展開していたようである。
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