抑留とCIA
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 04:17 UTC 版)
「テオドール・ゼーフェッケ」の記事における「抑留とCIA」の解説
1947年から新設されたばかりのアメリカ中央情報局(CIA)への協力を行い、1952年始めにはドイツ連邦刑事局(BKA)の仕事にも手を貸している。彼の足取りについては2002年に機密解除されたCIA文書の中で触れられている。これらの文書はアメリカ政府の委託を受けた歴史家らによって編纂されて2005年に出版されている。また、かつてBKAの警官を務めた経験を持つドイツの歴史家ディーター・シェンク(ドイツ語版)は、BKAの歴史に関する著書の中で1959年段階でゼーフェッケを含むBKA上級職員47名のうち45名が元NSDAP党員であった事を明かした。その内の半数はゼーフェッケのように戦争犯罪に値する行いに関与していたという。2011年にはBKAからの依頼を受けた歴史家パトリック・ヴァーグナー(ドイツ語版)が同じテーマに関する調査を行っている。 1945年、捕虜となったゼーフェッケは取り調べの中でチュニジアにおけるユダヤ人強制労働やコルベッタでの銃撃への関与を全面的に認めた一方、イタリアにおけるユダヤ人狩りへの関与に関しては語らなかった。彼は米軍が旧ダッハウ強制収容所内に設置していたダッハウ捕虜収容所(ドイツ語版)ヘと送られた。1947年10月、イタリアにおける殺人に関する起訴に関連して身柄が米軍から英軍の管理下に移される。1947年11月には起訴が取り下げられ、身柄が再び米軍の管理下に戻る。この際、米英軍では取り調べの結果から彼がニュルンベルク裁判で「犯罪組織」と認定されたSSの隊員であることを把握していたにも関わらず、彼自身の「戦時中はベルリンで警官として働いていた」という証言に基づき、彼の「犯罪組織への所属」に関しては裁かないことで合意している。歴史家らが編纂したCIAの記録では、彼がこの時点で既に連合国側諜報機関のエージェントとして雇用されていた為、こうした経歴のごまかしが行われたのだとしている。 1948年4月、ダッハウ捕虜収容所から釈放される。1950年8月25日、ベルリンの非ナチ化委員会では彼について3年の抑留と18ヶ月の奉仕が課されたとしている。冷戦が始まる頃、ゼーフェッケはCIAベルリン支局のエージェントとなり、コードネーム「キャバンジョ」(Cabanjo)として活動した。長年警察やゲシュタポに勤務した経験から、ゼーフェッケはCIAエージェントに期待される技能を十分身につけており、また同時に有力な情報源とも見なされていた。彼の政治的見解をCIA側でも隠しておらず、しばしばナチス・ドイツを懐かしんでいたゼーフェッケは当時上官だったリチャード・ヘルムズに対しても国家社会主義の原則が正しかったと語っていたという。CIAが1953年1月に作成したメモには、ゼーフェッケがイタリアにおけるパルチザン掃討に関わっていた事が明記されている。彼は有能なエージェントであったものの、依然として国家社会主義を支持し続ける姿勢が唯一の問題点であった。 1953年1月8日にCIA内で作成されたゼーフェッケに関するメモ。カッコ付きの空白はCIA側による検閲削除の跡。1ページ目。 2ページ目。 3ページ目。
※この「抑留とCIA」の解説は、「テオドール・ゼーフェッケ」の解説の一部です。
「抑留とCIA」を含む「テオドール・ゼーフェッケ」の記事については、「テオドール・ゼーフェッケ」の概要を参照ください。
- 抑留とCIAのページへのリンク