戦後の自治運動と失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 11:00 UTC 版)
「デムチュクドンロブ」の記事における「戦後の自治運動と失脚」の解説
蒙古自治邦政府(1941年8月4日に蒙古聯合自治政府が改称)の文武官と自らの家族に正藍旗の砂地への避難を命ずるもソ連とモンゴル人民共和国の連合軍への特使が拘束されたため、側近とともに一時北平に寓居する。1949年に人民解放軍が北平を占領すると脱出して国民政府に再度内蒙古の自治を要求。1949年4月13日には蒙古自治準備委員会を結成して副委員長、8月10日には蒙古自治政府を設立して主席となったが、モンゴル人民共和国と接触を重ね、1950年にモンゴル人民共和国の独裁者ホルローギーン・チョイバルサンは外モンゴルをゴンチギン・ブムチェンド(英語版)、内モンゴルをデムチュクドンロブに任せて内外モンゴル統一を構想していたことからその誘いに応じ、李守信らとともにモンゴル人民共和国に亡命する。人民解放軍への投降に積極的だった副主席のダリジャヤ(達王)と保安委員会副委員長の白海風らは蒙古自治政府を西蒙自治政府に改組して人民解放軍に帰順した。当初は徳王はモンゴル人民共和国当局から監視されながらも歓迎を受けてソ連とモンゴル人民共和国に協力を要請するも、利用価値がないと判断したモンゴル人民共和国当局によって逮捕されて中華人民共和国に引き渡され、戦犯として禁錮刑と思想改造を受けた。獄中で徳王は他の囚人より豪勢な料理と部屋が与えられ、人民服ではなくてモンゴルの民族服を着ることがゆるされるなど優遇された。1962年には中国政府は徳王とその家族(第二夫人と三男)がフフホトに居住できるように取り計らった。 1963年の特赦で釈放された後、周恩来の歴史資料を保存せよという指令に基づき、内モンゴル自治区文史館で働きながら回顧録を執筆していた。1966年にフフホト、内蒙古医学院付属病院で肝臓病で死去。自伝は中国共産党を称えるなどプロパガンダ的な懺悔録の形態をとっている一方で自分の政治的行為の正当性を訴えている側面もあるという評価もされている。
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