成立への過程
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1400年、陳朝は重臣の胡季犛に簒奪されて滅びた。胡季犛は諸改革を断行して国制を固めたが、簒奪と粛清を繰り返していたために国内では反対者も多かった。さらに明の永楽帝が安南への南下政策を推し進めるにあたり、陳朝の復権とその一族(中国語版)の復位を求めると胡季犛はこれを拒絶。永楽帝は1407年に大軍を安南に侵攻させ(明胡戦争(英語版))、胡季犛は多くの臣下に離反されて捕らえられて殺され、大虞は滅びた。 以後、安南は明の直接支配に入る。明は安南に対して過酷な搾取並びに過度な同化政策を強要したため、安南各地で明への反乱が発生した。このような中で1407年10月、愛国者だった陳肇基(ベトナム語版)は、陳朝の第9代皇帝・芸宗の次男だった陳頠を盟主として謨渡(現在のニンビン省イエンモー県イエンタイン社(ベトナム語版))で蜂起した。陳頠は帝号を称して即位した(簡定帝)。これが後陳朝の起源である。
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成立への過程
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1225年に成立した陳朝は徹底的な血縁重視体制(上皇体制)を採ることで中央集権化を進めていた。13世紀までは有能な皇帝や一族(陳興道)らが多数現れて有効に機能したが、14世紀になると有能な皇帝・血族が現れずに国内は皇族や重臣の離反・腐敗などで乱れた。 このような中で勢力を拡張したのが、五代十国時代(940年代)に婺州永康県から南下・移住した祖先を持つ胡季犛である。彼は陳朝で採用されていた科挙で選抜された官僚と手を組んで陳朝内部で巧みに勢力を拡張し、第9代皇帝・芸宗の外戚となってその寵愛を受けた。第10代皇帝・睿宗が対チャンパ戦争で戦死して皇帝の威信が衰えると、1388年には第11代皇帝・陳晛を殺害して自らの娘婿である順宗を擁立し、宰相として実権を握った。 1394年、上皇としてかろうじて陳朝を支えていた芸宗が死去すると、胡季犛は直ちに有力皇族と重臣の粛清を開始。1398年には成長した順宗を廃して殺し、幼少の少帝を擁立する。1400年には遂に少帝をも廃し、自らが皇帝として即位。国号を大虞と改め、姓を黎から胡とした。ここに陳朝は滅び、胡朝が誕生したのである。
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