当線旅客輸送の経緯
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「鹿島臨海鉄道鹿島臨港線」の記事における「当線旅客輸送の経緯」の解説
1976年7月22日、国と神栖町(2005年から神栖市)と茨城県により、新東京国際空港(現成田国際空港)への航空燃料暫定輸送協定が締結された際、同町議会の決議を尊重して、国は旅客輸送の実現に速やかに努力するという条文が含まれた。これに伴い、同日に運輸省航空局長から鹿島臨海鉄道に旅客列車運行の依頼があり、同年12月3日には運行区間や駅設置・本数などを具体的に示した再依頼が行われた。これに対し、貨物輸送を目的とする鹿島臨港線の旅客輸送条件はきわめて悪いという理由で鹿島臨海鉄道はその「実施に躊躇していた」(出典ママ)が、1977年3月25日に航空局長にあてて概ね2つの内容の要望書を提出した。 航空燃料輸送終了時点で検討を行い、収支改善の見込みがなく、地域交通機関として十分に機能を果たす見込みもない場合は、旅客営業廃止のために航空局や新東京国際空港公団の特段の配慮を受ける。 地元の要請で航空燃料輸送終了後も旅客営業を行う場合は、航空局や空港公団などにより欠損額補填について特別の配慮を受ける。 その後、鹿島臨海鉄道は株主総会で定款を改正し、同年7月25日に「本来は鹿島臨海工業地帯の物資を運ぶ貨物専用線の鹿島臨港線」(出典ママ)で、航空局長からの依頼に従った駅設置や運行本数による旅客営業を開始した。 しかし、1日3往復と僅少の上、鹿島臨港線内の神栖駅や鹿島港南駅は市街地から離れ、同区間を走るバスよりも割高だったことなどもあり、5年4か月の旅客営業期間中の1日平均輸送人員は27.3人、営業最終年で比較的多くの利用客があった1983年度を除くと17.6人と、利用実績は非常に低調だった。 そのため、1983年8月6日に航空燃料輸送が終了すると、鹿島臨海鉄道はすぐに鹿島臨港線での旅客輸送廃止認可を得て、同年11月30日限りで旅客輸送を廃止した。 2003年に鹿島臨海鉄道が刊行した『鹿島臨海鉄道三十年史』でも、当線の旅客輸送に関する記述を「航空燃料暫定輸送に伴う旅客輸送」とし、1985年から旅客営業を続ける「大洗鹿島線」とはその位置付けを明確に区分して、同社の本意による旅客営業ではなかったことを強く示す記述を行っている。 なお、同時期の旅客営業実績は以下の通り。 年 度運転日数(日)輸送人員(人)1日平均輸送人員(人)自社運賃収入(千円)1日平均運賃収入(円)特記事項1978年(昭和53年)249 5,232 21.0 1,262 5,069 開業 1979年(昭和54年)366 4,901 13.4 1,262 3,447 1980年(昭和55年)365 6,298 17.3 1,336 3,660 1981年(昭和56年)365 6,125 16.8 1,502 4,115 1982年(昭和57年)365 7,472 20.5 1,592 4,360 1983年(昭和58年)244 23,330 95.6 3,394 13,910 旅客営業廃止 合計1.95453,35827.310,348 5,296 出典:『鹿島臨海鉄道三十年史』、43p。
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