延久の善政とは? わかりやすく解説

延久の善政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 08:56 UTC 版)

後三条天皇」の記事における「延久の善政」の解説

後三条天皇桓武天皇意識し大内裏再建征夷完遂打ち出した。さらに大江匡房らを重用し一連の改革乗り出す1069年治暦5年/延久元年)には画期的な延久の荘園整理令発布し記録荘園券契所設置し1070年延久2年)には絹布の制、1072年延久4年)には延久宣旨枡估価法制定等、律令制度形骸化により弱体化した皇室経済基盤強化図った。特に延久の荘園整理令は、今まで整理令に見られなかった緻密さ公正さ見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等(『後二条師通記』に記載有り)、摂関家経済基盤大打撃与えた。この事が官や荘園領主農民安定もたらし、『古事談』はこれを延久の善政と称えている。一方摂関家側は頼通・教通兄弟対立関係にあり、外戚関係もなかったために天皇への積極的な対抗策打ち出すことが出来なかった。 また、同時代起きた延久蝦夷合戦にて、津軽半島下北半島までの本州全土朝廷支配下に入る等、地方にも着実に影響を及ぼすうになる1072年延久4年)、即位4年にて第一皇子貞仁親王譲位し太上天皇となり、院政開こう図ったが、翌年には病に倒れ40歳崩御した。尚、近年の研究では、天皇退位院政実施図ったものではなく、病によるものとする説が有力である。後三条天皇治世摂関政治から院政移行する過渡期となった

※この「延久の善政」の解説は、「後三条天皇」の解説の一部です。
「延久の善政」を含む「後三条天皇」の記事については、「後三条天皇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「延久の善政」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「延久の善政」の関連用語

延久の善政のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



延久の善政のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの後三条天皇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS