平安期の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:33 UTC 版)
天長4年(827年)、淳和天皇が病に倒れたため占わせたところ、東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟りであることがわかり大中臣雄良が派遣され、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜された。以来、京の人々から巽の福神(東南方向の福の神)との崇敬を集めた。現在の東寺との関係はここに端緒があるとする。社では稲荷山に明神が鎮座した和銅4年2月壬午を記念日として初午大祭を興し、稲荷祭もこの頃から始まったとされている。稲荷祭は神幸祭(稲荷のお出で)が、旧暦3月中の午の日に、還幸祭(稲荷のお旅)が旧暦4月上の卯の日、と定められていた。 延喜8年(908年)には藤原時平の寄進により社殿が造営され、延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には名神大社、また二十二社の上七社に列し、天慶5年(942年)に正一位が授けられた。当時は伊勢神宮は天皇以外の参拝が禁止されており、京からも近い当社が多くの参詣者を集めるようになった。平安時代の隆盛が『今昔物語』などにも見え、『枕草子』は初午に7度も詣でる元気な女性がいて羨ましかった、とある。こうして稲荷祭は下鴨の葵祭、八坂の祇園祭とならぶ人気を博したという。延久4年(1072年)、後三条天皇が初となる行幸があった。神社ごとに勅使を送る奉幣では久安6年(1150年)の左大臣・藤原頼長が初めてである。
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