少年文学会に改名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 05:06 UTC 版)
そして鳥越により早大童話会を少年文学会に、会誌名も『童苑』から『少年文学』に改名。会誌改名は1953年とされ、苑が常用漢字でないというのも改名の理由だったという。会誌改名のニュースは『日本児童文学』『東京新聞』にも掲載された。 だが両者同時に変えるのは極端だという指摘で(古田によれば「そう言ったのは自分ではないか」とも思っているが、古田の記憶に確証がないという)、それぞれタイミングをずらし、サークルは1960年に改名された。このためサークルの改名時期は当時の会員間でも記憶違いの証言が存在している。また同一組織であれど、組織名の知名度は早大童話会より劣るため、その後の文献や輩出者のプロフィールでは、少年文学会時代でも「早大童話会」と記されることが多い。 また53年には初の女性会員が4人入会、比率にして約6人に1人ぐらいが女性になったとの事。 川北によると1970年頃には会報と別に、新入生のみの作品集『狄』(てき)を発行していた。毎週火曜と木曜が評論研究会、土曜が自分たちで書いた作品を見せる創作研究会だったという。後述の学生闘争激化前は、合宿も行っていた。プロになった先輩作家を呼ぶシンポジウムを行う早稲田祭が終わると、旗を持って山手線ぞいに徹夜で歩くというイベントもあり、所要は約12時間。後藤が600枚の作品を書いてきた時は、編集長だった千葉が掲載を決断し、印刷費は鳥越などの先輩からもカンパを頼んだ。 1970年頃は少年文学会・切手研究会・童謡研究会の三団体で部室を共同使用、童謡研究会には当時矢崎節夫が在籍していた。童謡研究会はその後、童謡とは名ばかりにヘビーメタルを扱うようになったが、やがて少年文学会と関係が悪くなり、2007年に別の部室に移動した。 1973年より雑記帳『裸婦と餓鬼』(らふとがき。ラフと書きのもじり)を発行、やがて1973年頃より冊子形式で『裸婦餓鬼』に改名して年2-3回発行、1979年にはまとまった同人誌のスタイルへと出世し、1980年代まで続く。これは源流をたどれば童話会時代から続く、由緒ある名である。2004年には『少年文学会・童謡研究会・裸婦餓鬼合併号』を発行している。 輩出者 大岡秀明/多珂秀明(児童文学研究者) 小沢正(児童文学作家、翻訳家) 小桧山奮男(児童文学作家、翻訳家) 川北亮司(児童文学作家、脚本家、漫画原作者) 後藤竜二(児童文学作家) 杉山経一(児童文学作家) 鈴木悦夫(児童文学作家、作詞家) 鈴木実(児童文学作家) 千葉幹夫(児童文学作家、児童文学研究者、妖怪研究家) 松井荘也(児童文学作家) 松谷さやか(翻訳家) 三田村信行(児童文学作家) 山元護久(児童文学作家、放送作家、作詞家、脚本家)
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