小競り合いの発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/23 16:25 UTC 版)
「第一次ブルランの戦い」の記事における「小競り合いの発生」の解説
1861年7月の北バージニア 南軍 北軍 北軍はうだるような暑さの中をゆっくりと2日間前進し、センタービルで休憩を取った。マクドウェルはセオドア・ラニオン准将に5,000名を付けて全軍の後衛とした。その間に、ボーリガードが防衛戦をブルランまで引いたので、その側面を衝く方法を探していた。7月18日、ダニエル・タイラー准将の師団を送って南軍の右翼に回り込ませた。しかしタイラー師団はブルランのブラックバーン浅瀬で南軍との小競り合いに引き込まれ前進が止まった。 マクドウェルは自身の作戦の失敗に憤り、代案として南軍の左翼(北西)を攻撃することに決めた。タイラー准将の師団がウォーレントン・ターンパイク沿いのストーン・ブリッジから攻撃をかけ、デイビッド・ハンターとサミュエル・ハインツェルマン両准将の師団が迂回路を通ってさらに西側のサドリー・スプリングス浅瀬を渡る作戦だった。そこまで行けば南軍の左翼後方に回り込めた。また、この主力部隊の攻撃を南軍に邪魔させないよう、タイラー師団隷下のイズラエル・リチャードソン大佐の旅団をブラックバーン浅瀬に残し、南軍右翼に対して嫌がらせ攻撃を行うこととした。パターソン軍がジョンストン軍をシェナンドー渓谷に釘付けにしておけば、援軍は来ないはずであった。マクドウェルの作戦は理論的には十分であったが、幾つか欠陥があった。1つ目は、敵を攻撃するときに時を同じくして開始する必要があったが、急拵えの軍隊ではそこまで練度が上がっていなかったこと。2つ目は、ジョンストン軍を拘束するというパターソン軍の行動に頼るところがあったこと(実際、パターソンは失敗した)。そして、実際に最も大きな影響を及ぼした3つめの問題点である。マクドウェルがぐずぐずしている間に、シェナンドー渓谷のジョンストン軍は徒歩でマナサスギャップ鉄道のピードモント・ステーションに向かい、そこから鉄道でボーリガード軍を援護するためにマナサス中継駅に向かってしまった。 7月19日と20日、ブルランで戦陣を張る南軍にかなりの援軍が届いた。ジョンストン軍は移動中であったエドマンド・カービー・スミス准将の旅団を除いて全軍が到着した。新参の部隊の多くはブラックバーン浅瀬の近辺に陣を布き、ボーリガードはそこから北のセンタービルに向けた攻撃を行おうと考えた。古参士官のジョンストンもその作戦に同意した。南北両軍の作戦が同時に行われた場合、互いに反時計廻りに回転して敵の左翼を攻めるという形になるところだった。 マクドウェルはその諜報員から相反する情報を得ていた。このため、ワシントンのタデウス・ロー教授がデモンストレーションをしたことのある熱気球エンタープライズ号を要求し、空中から付近の偵察をすることとした。
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