小松輝久
小松輝久
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小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日本の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。
注釈
- ^ 容疑については伊号第八潜水艦#国際法違反事件を参照。
出典
- ^ 「小松氏が大宮司に」毎日新聞2017年7月4日 東京朝刊
- ^ “伊勢神宮大宮司が就任会見 「次期遷宮へ改善点整理」”. 西日本新聞. 2021年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月2日閲覧。
- ^ 『提督 草鹿任一』(光和堂)
- ^ 「皇族と帝国陸海軍」
- ^ 『提督 草鹿任一』(光和堂)
- ^ 臺灣神社社務所 1935, p. 83(NDLJP:3460493/66)
- ^ 台南神社社務所 1928, p. 41(NDLJP:1907486/47)
- ^ a b 明治43年宮内省告示第10号(『官報』号外、明治43年7月20日)(NDLJP:2951475/14)
- ^ a b 『官報』号外「叙爵」、明治43年7月20日(NDLJP:2951475/14)
- ^ 『官報』号外「宮廷録事」、明治43年7月20日(NDLJP:2951475/14)
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、115頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、17頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、18頁。
- ^ 『官報』第5788号、昭和21年5月4日。
- ^ a b 『官報』第2106号「叙任及辞令」、明治41年11月4日(NDLJP:2950955/3)
- ^ 『官報』第311号、大正2年8月12日。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」28頁。
- ^ 『官報』第2106号「叙任及辞令」、大正8年8月12日。
- ^ 『官報』第4147号「叙任及辞令」、昭和15年11月1日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」、大正4年12月13日。
小松輝久(北白川宮輝久王)
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「小松宮」の記事における「小松輝久(北白川宮輝久王)」の解説
小松輝久(こまつてるひさ)は、北白川宮能久親王の第4王子。北白川宮輝久王。1888年(明治21年)生まれ。爵位は侯爵、位階は正三位、勲位は勲一等侯爵、貴族院議員。海軍兵学校に進み、21歳で海軍少尉候補生の時に臣籍降下し小松侯爵家を創設する。参謀や教官職が長く、軽巡洋艦木曾艦長、重巡洋艦那智艦長などを経て、第6艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、海軍兵学校校長を歴任、最終階級は海軍中将。 1948年(昭和23年)、B級戦犯として実刑の判決を受け、巣鴨拘置所に収監され服役した。出所後は平安神宮宮司を務める。1970年(昭和45年)死去、82歳没。 彰仁親王は生前から、依仁親王ではなく北白川宮輝久王を継嗣にと希望していた。しかし依仁親王との関係で調整がつかず、輝久王は小松侯爵家を創設して臣籍降下し、小松宮家の資産・祭祀を継承した。これによって、1903年(明治36年)に小松宮彰仁親王が薨じて断絶していた小松宮家の祭祀を承継する。輝久には彰久、豊久、舒子の3子があり、舒子は木戸侯爵家の長男で日銀・日本勧業角丸証券常務などを務めた木戸孝澄に嫁いだ。長男彰久の子女は現・当主小松揮世久(伊勢神宮大宮司)と女子3人。
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