てらうちかんたろういっか〔てらうちクワンタラウイツカ〕【寺内貫太郎一家】
寺内貫太郎一家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 15:56 UTC 版)
『寺内貫太郎一家』(てらうちかんたろういっか)は、1974年にTBS系列の水曜劇場枠で放送され、平均視聴率31.3%を記録したテレビドラマ。昭和の東京下町、石屋を営む一家とそれを取り巻く人々との人情味溢れる毎日を、コメディータッチで描いた。向田邦子脚本、久世光彦プロデュース、小林亜星主演。1974年第7回テレビ大賞受賞作品[1][2]。
注釈
- ^ 2の最終話で節子が谷中清水町(現在の池之端)と話した。
- ^ LP『JULIE VI ある青春』の購入特典
- ^ a b c d 2のオープニングでの絵の中の吹き出しに「ジューリー」と記されている
- ^ a b 2の第22話、きんの話から48年前に数えの7歳と判明"
- ^ この設定は『時間ですよ 第3シリーズ』の相馬ミヨコとほぼ同じ
- ^ 役名の「相馬」は当時の所属事務所で秀樹と浅田のマネージャーを務めていた相馬一比古より命名
- ^ 挿入歌から察しはつくが、第24話で貫太郎が話す。最終話では今月末には24歳になるとも貫太郎が話した
- ^ 設定上の存在だけでキャスト不在
- ^ 1では70歳と本人が言ったので辻褄が合わないが、今作は第22話の最後に里子が48年前きんは26歳だったと回顧
- ^ 存在のみでキャスト無し
- ^ クレジットにはないが劇中で里子やきんが「たちばなさん」と発している。漢字表記不明
- ^ a b クレジットされているが、強烈な役処のためか明瞭に顔が映っていない
- ^ デスクワークでの身なりや16話の結婚式の唯一の参列などから、岡ではないが社長の可能性もある一定以上の上席と思われる
- ^ 東京新宿神楽坂(赤城元町)にある赤城神社の本物の宮司
- ^ a b 東京新宿神楽坂(赤城元町)にある赤城神社の本物の巫女と思われる
- ^ 劇中エンディングシーンのおふざけでは命名助平(大助の「助」と周平の「平」)になるところだった
- ^ その交友のエピソードで、一緒に飲んでいた屋台の割りばしの長い方が「サチ子」で短い方が「節子」という2人が考えた最終候補をくじ引きで決めたと貫太郎が話した。よって節子はその選ばれなかったハズレくじの名前だったことが判明した
- ^ 準レギュラーの皆川役があるのに何故か最終回にこの役も担った
- ^ ただの偶然に過ぎないが、のちに西城秀樹はフリオ・イグレシアスの作った33才というシングルをリリースする
- ^ a b c 向田邦子の代表作「阿修羅のごとく」の主人公・四姉妹のうち、三人の女優(加藤・いしだ・風吹)が顔を揃えた
- ^ 今作の設定では、結婚して三島(静岡県)に住んでいる
- ^ 東京都中央区八丁堀5-3-18とミヨ子が読み上げるが、2021年BS12トゥエルビの再放送では送られてきたメールを表示したPC画面上では5丁目は実在しないにもかかわらず消されていた
- ^ 「かねだ」でなく「かねた」で、ムーでの樹木希林のいつもの訂正シーンを演じた
- ^ 「新」では「志甫啓太」名義で石貫のアキオ役だった
- ^ 本業は作曲家である小林の俳優・タレントデビューでもある
- ^ 餌食役には松本人志、遠藤章造。
出典
- ^ 放送ライブラリー 番組ID:001042
- ^ 寺内貫太郎一家 - テレビドラマデータベース
- ^ 第一話で本人が説明
- ^ 小林亜星さん、「寺内貫太郎」主演を向田邦子さんにダメ出しされていた
- ^ 『寺内貫太郎一家』 向田邦子著 ISBN 978-4101294018 久世光彦による解説(1983年3月)
- ^ 『あの日、夢の箱を開けた!―テレビ黄金時代の立役者12人の告白』 - 182ページ
- ^ 感涙の“名セリフ&名シーン”50年秘史!「寺内貫太郎一家・小林亜星」
- ^ 小林亜星が歌謡界にダメ出し「流行歌は滅びたね」
- ^ 86歳 小林亜星が語る「僕と寺内貫太郎、それぞれの戦後73年」
- ^ 小林亜星さん死去 本人が明かした「寺内貫太郎一家」西城秀樹とのケンカの思い出 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)
- ^ a b 『北國新聞』1975年10月8日付朝刊、テレビ欄。
- 1 寺内貫太郎一家とは
- 2 寺内貫太郎一家の概要
- 3 オールスタッフ
- 4 DVD
- 5 参考書籍
寺内貫太郎一家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:39 UTC 版)
西城のお茶の間人気を高めたのは、バーモントカレーの広告で見せる庶民的で人懐っこいキャラクターに加え、昭和を代表する国民的ホームドラマともいわれた『寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)への俳優としての出演が大きかった。久世光彦プロデューサーは、西城抜擢の経緯について「秀樹がテレビやステージでみせる、あの炎のような激しいアクション、力感、エネルギー。だがその影には、きっと涙があるに違いない。バンカラではなく、少年のようにセンサイで、悲しいものを持っている。それが本当の"男"の魅力です。今度のドラマで追求したいのは「日本人の男らしさ」―それを表現する素材として、秀樹以外に考えられなかったからです。秀樹は将来、役者としても大物の素材であることは間違いない。日本のアラン・ドロンは沢田研二だが、ぼくは秀樹には日本のジェームズ・ディーンになってもらいたいんです。ドラマは秀樹の弟と姉の将来をタテの線に、人間の傷つけあい、かばいあいをヨコの線に進めていきます」などと話した。当時の人気タレントはドラマの収録に充てる日にちはせいぜい一週間に2日だったが、西城は一週間に4日も空けて、久世からのラブコールに応えた。毎週、お約束のように登場するのが貫太郎こと小林亜星と長男周平役の西城との親子げんかで、西城が小林に投げ飛ばされ腕を骨折し入院したエピソードはよく知られる。
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