家康の甲州発向
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本能寺の変の発生した天正10年6月2日、堺に滞在していた徳川家康は、畿内を脱出して同月4日に三河の岡崎城(愛知県岡崎市)に帰還した(根拠史料)。 同月6日に家康は駿河衆・岡部正綱に書状を送り、畿内脱出の途中で死去した穴山梅雪の本拠である甲斐河内領の下山館(身延町下山)における城普請を命じ、富士川・駿州往還(河内路)沿いに菅沼城(身延町寺沢)が築城された(根拠史料)。 同月10日頃、家康は、織田氏の家臣として甲斐一国と信濃諏訪郡を統治していた河尻秀隆のもとへ家臣の本多信俊(百助)を派遣し、河尻に協力の要請を行い、また信濃佐久郡の国衆・依田信蕃を佐久郡へ向かわせた(『当代記』)。 岡部は6月12日から同月23日にかけて、曽根昌世と連署で甲斐衆に知行安堵状を発給した(根拠史料)。 6月14日に岩窪館において河尻は本多信俊を殺害した(『三河物語』)。『武徳編年集成』によれば、河尻は信俊に不審感を抱き、家康が一揆を扇動し、甲斐を簒奪する意図があったと疑い、信俊を殺害した。 翌15日に甲斐国人衆が一揆を起こし、河尻は脱出を図ったが、18日に一揆勢に殺害された(『三河物語』?)。 上野・甲斐・信濃の3か国を統治していた織田氏家臣のうち、河尻が死亡し、滝川一益・森長可が敗走したことを確認した家康は、明智光秀を討った羽柴秀吉と連絡した(根拠史料)。 清洲会議において、家康の行動について織田氏重臣の同意が得られたと考えられる。(根拠史料?)。 7月7日に秀吉は、家康に、軍勢を派遣して上・甲・信3か国を確保することを認める書状を送った。
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