家康の甲州発向とは? わかりやすく解説

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家康の甲州発向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:33 UTC 版)

天正壬午の乱」の記事における「家康の甲州発向」の解説

本能寺の変発生した天正10年6月2日、堺に滞在していた徳川家康は、畿内脱出して同月4日三河岡崎城愛知県岡崎市)に帰還した根拠史料)。 同月6日家康駿河衆・岡部正綱書状送り畿内脱出途中で死去した穴山梅雪本拠である甲斐河内領の下山館(身延町下山)における城普請命じ富士川駿州往還河内路)沿いに菅沼城(身延町寺沢)が築城された(根拠史料)。 同月10日頃、家康は、織田氏家臣として甲斐一国信濃諏訪郡統治していた河尻秀隆のもとへ家臣本多信俊(百助)を派遣し、河尻に協力要請行い、また信濃佐久郡国衆依田信蕃佐久郡へ向かわせた(『当代記』)。 岡部6月12日から同月23日にかけて、曽根昌世連署甲斐衆に知行安堵状発給した根拠史料)。 6月14日に岩窪館において河尻は本多信俊殺害した『三河物語』)。『武徳編年集成によれば、河尻は信俊に不審感を抱き家康一揆扇動し甲斐簒奪する意図があったと疑い、信俊を殺害した。 翌15日甲斐国人衆が一揆起こし、河尻は脱出図ったが、18日一揆勢に殺害された(『三河物語』?)。 上野甲斐信濃の3か国を統治していた織田氏家臣のうち、河尻が死亡し滝川一益森長可敗走したことを確認した家康は、明智光秀討った羽柴秀吉連絡した根拠史料)。 清洲会議において、家康行動について織田氏重臣同意得られたと考えられる。(根拠史料?)。 7月7日秀吉は、家康に、軍勢派遣して上・甲・信3か国を確保することを認め書状送った

※この「家康の甲州発向」の解説は、「天正壬午の乱」の解説の一部です。
「家康の甲州発向」を含む「天正壬午の乱」の記事については、「天正壬午の乱」の概要を参照ください。

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