完成とその概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 07:09 UTC 版)
「リキ・スポーツパレス」の記事における「完成とその概要」の解説
力道山は、後援者で明治座社長だった新田新作から新田の本拠地である日本橋浪花町(現日本橋富沢町)の土地をもらい、そこを自身の道場「力道山道場」、後に「日本プロレス・センター」と称し、日本プロレスの拠点としていた。プロレス・センターは広かったが、少人数しか観客を収容することができなかった。 力道山は、「プロレスにも、相撲の『国技館』のような常設会場が欲しい」と考えていた。常設会場があれば定期興行の開催も可能で、他の会場をレンタルする必要も無いためトラブルも減るという、斬新なアイデアだった。偶然にもプロレスセンターは土地収用の対象となったため(現在のNTT東日本茅場兜ビル)、渋谷に新しい土地を買い求めビルを建てることとした。 1960年に着工。当時の金額で15億円という巨費を投資し、1961年に完成した。 力道山の想い出の遠征地であるハワイ州ホノルル・シビック・オーデトリアムを模して建造されたホールは、ビルの3階から5階部分までの吹き抜けで、最大収容数3,000人。7月30日に行われたお披露目会には、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの「三人娘」を始めとする、テレビ界のスターが多数来場。夢の殿堂とも呼ばれた。杮落としは8月19日の日本プロレス興行で、観客動員は3,000人超満員であった。日本プロレスの常設会場として、「三菱ダイヤモンドアワー・プロレスリング中継」も主に当会場から中継されたほか、ボクシング興行も行われた。 所有は力道山個人の不動産資産会社「リキ・エンタープライズ」。ビル内には、プロレス会場(前述のホール)やプロレスの道場(リキ・レスリングジム)、プロレス関係の事務所(任意団体の日本プロレス・コミッション、任意団体の日本プロレス協会、日本プロレス興業株式会社)はもちろん置いたが、力道山個人のアイデアによる様々な副業的事業が開始された。 それらは、当時としては目新しいビジネスであったが、いずれもその数年内に全体としては市場が急速に拡大し急成長を遂げる業種が多く、サウナの「リキトルコ」、ボウリング場「リキ・ボーリング」、キャバレー、花嫁学校(現在で言うフィニッシングスクール)、更にレストラン「リキレストラン」、リキ・ボクシングジム、そして女性専用のスポーツジムがビル内に入居、一大複合ビルとして運営したが、複合ビルにしたことも「ビルに客を呼んで、プロレスを観て帰ってもらおう」という、斬新な発想からである。
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