天皇賞制覇後
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天皇賞制覇後はクリスマスイブの阪神大賞典で1番人気に推されたが、同年の菊花賞2着馬のキャプテンナムラ、菊花賞馬のインターグシケンに交わされて6着と敗退。1979年も連敗は続き、中京で行われた京都大賞典でハシハーミット・リュウキコウを相手にレコード勝ちするが、勝ち星はそれ一つにとどまった。関係者は同年を最後に引退させるつもりであったが、「天皇賞馬」の肩書きはあるものの、スピード競馬の黎明期にあってステイヤー血統のテンメイには種牡馬としての需要がなかった。関係者が期待していた日本中央競馬会による購入は実現しなかったため、テンメイは競走生活を続行せざるを得なくなったが、テンメイを宮城県で種牡馬として個人で所有すると、藤村稔という人物が現れる。1980年6月の宝塚記念12着を最後に中央における競走馬登録を抹消し、当初はそのまま競走馬を引退して種牡馬になると報道されたが、種牡馬にするという約束で購入した藤村が約束を違え、岩手・水沢の村上初男厩舎に移籍して競走馬生活を続けていることが判明。この事実は競馬ファンの反発を招き、「トウメイの血を守る会」が結成された。抗議活動を続けたところで所有者の意思には干渉できないという事実の前に会の活動は行き詰まり、発起人を含め脱落する会員も相次いだが、一部は資金を作り、藤村から200万円でテンメイを購入することに成功した。藤村との購入交渉にあたった会員は、藤村や村上は競馬ファンやマスコミからの評価とは異なり好人物で、愛情をもってテンメイに接していたと証言している。当時の岩手は多くの元中央オープン馬が走っており、ガーネツトの孫娘で優駿牝馬8着のサニーバース、関屋記念2着のヒロワイルド、中央11勝で岩手でも12勝したスリーパレード、重賞は勝てなかったものの2着5回と3着6回を記録したマーブルペンタス、目黒記念(秋)でカシュウチカラを破ったブルーハンサム、アズマデライト、札幌記念や阪急杯など重賞4勝のテルノエイトといった馬達とテンメイは対戦。岩手では1980年の桐花賞・北上川大賞典3着が最高とビッグタイトルには手が届かなかったが、26戦7勝の成績を挙げ、1982年8月のシアンモア記念4着を最後に競走馬を引退。
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