大蔵卿としてとは? わかりやすく解説

大蔵卿として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 16:53 UTC 版)

ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)」の記事における「大蔵卿として」の解説

1572年4月重病かかったため、秘書長官職辞した1573年からウォルシンガム就任)。代わって同年7月大蔵卿英語版)に任じられた。 大蔵卿として王庫を預かるようになったバーリー卿は、王庫の貯蓄励んだ倹約努力重ねてスペインとの開戦不可避となった1584年までに王庫は30ポンド貯蓄を持つようになった。だがスペインとの戦争により1590年までにはこの貯蓄消えて無くなったその後バーリー卿は再び倹約努力をして1590年代半ばまでに13ポンド貯蓄したが、凶作1596年以降に再び減少し、いよいよ王領地を売却していくことを余儀なくされた。 エリザベスバーリー卿は倹約一辺倒現在の収入源増収を図ることや関税以外の恒常的税収議会認めさせる努力怠った議会議決による臨時収入それまで戦時限定だったが、エリザベスバーリー卿は平時でもそれに期待せざるを得ない困窮状態に置かれていた。 抜本的財政改革をしようとせず、小手先倹約だけでしのごうとするエリザベスバーリー卿は結局後世大きなツケを残すことになった。それに最初に苦しんだのはバーリー卿の息子ロバートであり、彼は1610年議会で「大契約」を提案して財政改革行おうとするも議会から否決されるという憂き目にあっている。 これとは別にバーリー卿はアイルランドにも目を向けウォルシンガムと共に南部マンスター植民計画推進1586年イングランドジェントリアイルランド駐在官吏・軍人土地分配しそこの入植担当する植民請負人募集した一方で不法占拠されていたアイルランドの王領地回収すべく、王への地代納入引き換え王領地の借地権認めるとした提案呼びかけた。その際不正防止様々な対策施したが、リチャード・ボイル役人抱き込んで大量王領地を不正に安く手に入れ、他の借地権保持者から権利買い取りアイルランド随一大地主にのし上がりバーリー卿のアイルランド対策失敗終わった

※この「大蔵卿として」の解説は、「ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)」の解説の一部です。
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