大蔵卿として
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「ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)」の記事における「大蔵卿として」の解説
1572年4月に重病にかかったため、秘書長官職を辞した(1573年からウォルシンガムが就任)。代わって同年7月に大蔵卿(英語版)に任じられた。 大蔵卿として王庫を預かるようになったバーリー卿は、王庫の貯蓄に励んだ。倹約の努力を重ねてスペインとの開戦が不可避となった1584年までに王庫は30万ポンドの貯蓄を持つようになった。だがスペインとの戦争により1590年までにはこの貯蓄は消えて無くなった。その後バーリー卿は再び倹約の努力をして1590年代半ばまでに13万ポンドを貯蓄したが、凶作で1596年以降に再び減少し、いよいよ王領地を売却していくことを余儀なくされた。 エリザベスとバーリー卿は倹約一辺倒で現在の収入源の増収を図ることや関税以外の恒常的税収を議会に認めさせる努力を怠った。議会の議決による臨時収入はそれまでは戦時限定だったが、エリザベスとバーリー卿は平時でもそれに期待せざるを得ない困窮状態に置かれていた。 抜本的財政改革をしようとせず、小手先の倹約だけでしのごうとするエリザベスとバーリー卿は結局、後世に大きなツケを残すことになった。それに最初に苦しんだのはバーリー卿の息子ロバートであり、彼は1610年に議会で「大契約」を提案して財政改革を行おうとするも議会から否決されるという憂き目にあっている。 これとは別にバーリー卿はアイルランドにも目を向け、ウォルシンガムらと共に南部のマンスターへ植民計画を推進、1586年にイングランドのジェントリやアイルランド駐在の官吏・軍人へ土地を分配しそこの入植を担当する植民請負人を募集した。一方で不法占拠されていたアイルランドの王領地を回収すべく、王への地代納入と引き換えに王領地の借地権を認めるとした提案を呼びかけた。その際不正防止に様々な対策を施したが、リチャード・ボイルは役人を抱き込んで大量の王領地を不正に安く手に入れ、他の借地権保持者から権利を買い取り、アイルランド随一の大地主にのし上がり、バーリー卿のアイルランド対策は失敗に終わった。
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