名誉革命期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 10:26 UTC 版)
「シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)」の記事における「名誉革命期」の解説
1688年、オランダからウィレム3世がイングランドへ上陸(名誉革命)、ジェームズ2世から支持者が次々と離れていく中でジェームズ2世への忠誠を貫き、ウィレム3世の交渉役としてハリファックス侯ジョージ・サヴィル・ノッティンガム伯ダニエル・フィンチと共にロンドンから派遣されウィレム3世との交渉に当たった。この後亡命を図ったジェームズ2世が捕らえられ、不在のロンドンにはロチェスターが暫定政権を発足させて治安維持に努め、交渉が終わった後に暫定政権に合流、ウィレム3世到着まで準備を整えていった。 ジェームズ2世がフランスへ亡命し、翌1689年にウィレム3世が妻メアリー2世と共にイングランド王ウィリアム3世に即位すると、ジェームズ2世の側近にも関わらず財務官僚としての手腕を買われ大蔵委員に留まり、1690年に政権と議会が衝突すると3月に辞任したが、ウィリアム3世に説得されて11月に第一大蔵卿として復帰した。1694年にホイッグ党(ジャントー)政権が成立した時もトーリー党員として閣僚に選ばれたが、1696年にジャコバイトが企てたウィリアム3世暗殺計画の関係者との告発が出ると、無実と証明されたにも関わらず辞任した。 1700年に第一大蔵卿に任命され復帰、1701年の総選挙でホイッグ党が優勢になると辞任したが、1702年にウィリアム3世が亡くなり義妹のアンが即位すると第一大蔵卿として政界に戻り、友人のマールバラ公ジョン・チャーチルとサラ・ジェニングス夫妻と同じく即位前からのアンとの親交が深かったため政権のトップに立ってアンを支える立場となった。また、マールバラ公夫妻の娘ヘンリエッタと息子フランシスを結婚させていたためマールバラ公との繋がりも強固にしていった。
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