大正末期〜昭和 本格的海外登山の始まり/組織の改編・体制の整備とは? わかりやすく解説

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大正末期〜昭和 本格的海外登山の始まり/組織の改編・体制の整備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 23:37 UTC 版)

日本山岳会」の記事における「大正末期〜昭和 本格的海外登山の始まり/組織の改編・体制の整備」の解説

日本初本格的な海外登山として位置付けられているのが、1925年大正14年)、慶應義塾大学山岳部OBおよび学習院大学山岳部OBらをメンバーとする日本山岳会登山隊(槇有恒三田幸夫11会長ら)によるカナディアン・ロッキーアルバータ山への初登頂である。1936年昭和11年)には立教大学隊(隊長堀田弥一日本山岳会会員)がガルワール・ヒマラヤのナンダ・コートに初登頂果たしている。 日本山岳会組織・体制次第整備されていく。創立以来事務所個人宅置かれ住所点々としていたが、1929年昭和4年)に虎ノ門不二屋ビル図書室兼ねたクラブルームを設け虎ノ門ルーム)、1933年昭和8年)には事務所も同じ場所に置いた1930年昭和5年)から「山日記」(登山上の注意読み物日記調査事項などから構成されポケットサイズ日記帳のようなもの。現在、雑誌山と溪谷』の付録「山の便利帳」として引き継がれている)、「会報」(現在の「山」)を発行している。1931年昭和6年)、これまでの規則」を「会則」に変更し会長理事制によって運営するように体制改め初代会長には小島久太就任した1941年昭和16年1月には社団法人組織変更1935年昭和10年)、創立30周年記念事業として、記念講演会山岳図書展覧会など催した1937年昭和12年)、上高地ウェストンのレリーフ設置したが、太平洋戦争開始翌年1942年昭和17年)には敵国イギリスの人物顕彰することが適わず、取り外された。1945年/(昭和20年5月空襲で、虎ノ門ルームはそこに収められていた山岳関係の資料図書とともに焼失してしまった。 戦時中ではあったが、会員数増え続け1942年昭和17年)には1000名を超えた

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