大友義統の豊後上陸とは? わかりやすく解説

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大友義統の豊後上陸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 23:54 UTC 版)

石垣原の戦い」の記事における「大友義統の豊後上陸」の解説

大友義統文禄の役失態により改易され、輝元の預かりとなったが後に佐竹義重移行された。また子の義乗も加藤清正預かりから徳川家康預かりとなり江戸住まいの後に東軍として会津攻め従軍した家臣団多く中津黒田家預かりとなった他、田原親賢宗像鎮続(むなかた しげつぐ)は豊臣家直臣取り立てられ中川秀成与力となる。吉弘統幸は如身を寄せた後に従兄弟にあたる立花宗茂の下で2,000石の知行得ていた。秀吉が死ぬと義統等は赦免され、自由の身となった1600年慶長5年4月、義統は増田長盛配慮により大坂天満に居を構えた7月石田三成挙兵すると、8月に義統は豊臣秀頼より鉄砲300丁を含む武器馬匹・銀を贈られ大阪離れて故地豊後向かった。義統の下向知った使者派遣して周防上関徳川につくよう要請をした。同時期に立花家仕えていた旧臣吉弘統幸江戸の義延へ合流する途上で義統に謁見して徳川につくように進言したが容れられず、輝元の支援受けて豊後へ向かう義統と行動を共にした。 9月8日夜に瀬戸内海渡った義統は富来城と安岐城の間に着岸、夜が明けないうちに木付沖を南下して浜脇上陸した9日の朝、義統は立石布陣行い大友氏ゆかりの旧家臣の集結求めた。これに呼応して中川秀成仕えていた旧大友家家臣田原親賢宗像鎮続などが加勢した。この立石の東は海であり、西に鶴見岳があり、南には朝見川がある。つまり天然の要塞であり、その立石から北側境川を渡ると、石垣原と呼ばれる雑木林田畑広がっていた。

※この「大友義統の豊後上陸」の解説は、「石垣原の戦い」の解説の一部です。
「大友義統の豊後上陸」を含む「石垣原の戦い」の記事については、「石垣原の戦い」の概要を参照ください。

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