坑夫の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/10 03:11 UTC 版)
アイダホ州が州となった最初の年に、コー・ダリーンの鉱山地区で労働者の暴動が起こった。1892年、坑夫たちはストライキを呼びかけ、組合坑夫と会社の警備員との間の銃撃戦に発展した。どちらの側も相手が先に発砲したと告発した。最初の銃撃はウォレスの北と東にあたるバーク・キャニオンにある、フリスコのフリスコ鉱山で起こった。フリスコ鉱山は爆破され会社の警備員が捕獲された。暴力沙汰は近くの地域社会であるジェムに及び、そこでは組合坑夫が組合に潜入し情報を鉱山経営者に流したピンカートン探偵社のスパイを突き止めようとした。しかし、代理人のチャーリー・シリンゴは自分の部屋の床に穴を明けて逃亡した。ストライキ参加者はジェム鉱山を閉鎖させ、続いて西のウォードナーに近いバンカーヒル鉱業複合施設に移動し、その施設も閉鎖した。 バーク・キャニオンでは数人が殺された。アイダホ州兵隊と連邦軍が地域に派遣され、組合坑夫とその同調者が留置場に放り込まれた。1899年に再度バンカーヒル施設で敵対関係が噴き上がり、このときは組合坑夫17人が組合に参加したことでクビになった。その他の組合坑夫は一律に給与を下げられ立ち去るように命じられた。怒った組合員は地域で結集し、バンカーヒル鉱山を爆破し、会社員2人を殺した。 どちらの紛争でも、組合の苦情は給与、労働時間、坑夫が組合に参加する権利、および鉱山所有者が密告者や覆面捜査員を使ったことが問題だった。組合坑夫が行った暴力沙汰は1892年と1899年に残酷な形でお返しされた。 西部坑夫連盟を通じて鉱山地区での戦闘はコロラド州での大きな坑夫のストライキに密接に結びつけられるようになった。闘争は1905年12月に山場を迎え、西部坑夫連盟の会員ハリー・オーチャード(アルバート・ホースリーとも呼ばれた)によって元知事フランク・ストイネンバーグが暗殺された。オーチャードは、ストイネンバーグ知事が労働者寄りの綱領で選出された後で1899年のストライキを破らせたことで、憤っていたと言われている。 ピンカートンの探偵ジェイムズ・マクパーランドが暗殺の調査を行った。1907年、西部坑夫連盟の財務担当者"ビッグビル"・ヘイウッドとその他2人の指導者がストイネンバーグ殺害に対する共謀で告発され、オーチャードがマクパーランドとの裏取引で彼等に不利な証言を行った。全国に報道された裁判では、合衆国上院議員のウィリアム・E・ボラーが検察官となり、クラレンス・ダローが被告の弁護を行った。弁護人団はオーチャードがピンカートンのエージェントであり、クリップルクリーク鉱山所有者協会のために報酬を貰う密告者として行動したという証拠を提出した。ダローは、オーチャードの真の暗殺動機はストイネンバーグによる戒厳令宣言に対する報復であるとし、オーチャードはそうならなければ金持ちになったであろうハーキュールズ鉱山の株を擦ってしまうことになった、と主張した。 西部坑夫連盟のうち2人は2つの別々の裁判で無罪となり、3人目も釈放された。オーチャードは有罪とされ死刑を宣告された。その刑は減刑され、生涯の残りをアイダホの刑務所で過ごした。
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