古代都市ポリェンティア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/24 01:25 UTC 版)
「アルクーディア」の記事における「古代都市ポリェンティア」の解説
カルタゴとローマが戦ったポエニ戦争時、この地域の住民が投石器で武装した兵士として参加し、バレアレス諸島人は投石の名手であるとする名声が地中海中に広まった。紀元前123年にはローマの元老院が、海上交易活動が盛んになるにつれて増加していた海賊行為の停止やバレアレス諸島の征服を目的として、Quinto Cecilio Meteloを指揮官とする遠征隊を組織した。ローマ人はマリョルカ島に到着すると島の南岸にマリョルカ島の主都としてパルマの町を建設し、さらに島の北岸にポリェンティアの町(現在のアルクーディア近辺)を建設した。 紀元1世紀初頭に建設されたポリェンティアのローマ劇場は当時の市街地の郊外に位置し、ポリェンティアの全住民のための娯楽施設だった。この劇場は演劇や体操のために使用され、ローマ帝国崩壊期には埋葬地として使用された。今日でも半円形の舞台や観客席の大部分を見学することができる。他都市のローマ劇場と異なる点として、岩盤を削って建設されたことが挙げられる。 ポリェンティアからはポリェンサ湾とアルクーディア湾の双方を見渡すことができ、ポリェンティアは他の侵略者に対する防衛地点の役割を果たした。アルクーディアは防衛地点として以外に、もっとも高級なトーガ(古代ローマ人の衣服)に使用される優れた織物を産出したことでもローマ人に言及されている。ラテン文化が流入したことで、ポリェンティアだけでなくマリョルカ島全体が共和政ローマの優れた組織体系に組み込まれた。ローマ時代には計画的な都市が築かれ、通りの整備、下水道、水道供給などが行われた。紀元前2世紀から紀元前1世紀にはポリェンティアの発展が最高潮に達し、港に隣接した郊外にローマ劇場が建設された。 ローマ帝国が地中海西部で支配力を失うと、ポリェンティアもローマに合わせてゆっくりと衰退をはじめた。海賊の攻撃を受け、また何度かヴァンダル族にも攻撃されたため、5世紀初頭には町が放棄された。住民はより防御が固く安全な場所に新たな町を建設するためにポリェンティアを去り、新しく築いた町がアルクーディアの5km北西にあるポリェンサである。しかし、ローマは地中海地域全体に足跡を残しており、今日まで続くアルクーディアの言語、法律、慣習などに名残が見られる。 現在のポリェンティア遺跡でアウグストゥスの胸像がたまたま発見されたのは16世紀のことである。1923年には初めて体系的な発掘調査が開始され、1930年代後半のスペイン内戦中には調査が一時停止されたものの、後に再開されて今日まで続いている。考古学者・建築家や他の専門家はポンペイなどの同時代の他都市と比較して、ポリェンティアの古代都市が完全に計画された都市だったとしている。ポリェンティアの古代都市はバレアレス諸島のローマ化の過程を理解するのに必須の事例であり、遺構が発見されたのは偶然のことだった。
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