反ヒトラー派に
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「反ヒトラー派に」の解説
シュトラッサー兄弟は国家社会主義理論の強化を目指しており、党綱領を改正して詳述化することを考えていた。その新綱領案はシュトラッサー兄弟やゲッベルス、カウフマンらによって練られ、1925年12月末に完成された。これはあくまで現行党綱領を詳述化した物であって綱領の根本原理を修正した物ではなかったが、ヒトラーは党首である自分に相談もなく北西ナチスが勝手に新綱領案を作ったことに激怒した。またヒトラーが考えるところでは党綱領は融通自在に解釈できるよう簡潔・抽象的でなければならず、綱領の詳述化は運動の戦術の自由を縛ってしまうものに他ならなかった。 グレゴールは、この新綱領案への承認を求めるために翌1926年1月25日にハノーファーにおいて北西ナチスの大管区指導者たちを招集した(ハノーファー会議)。この会議にヒトラーは出席せず、ゴットフリート・フェーダーを代理で送っている。ヒトラー本人が出席しなかったこともあって、会議は終始グレゴール優位に進んだ。フェーダーは「ヒトラーも私もこの綱領案を認めるつもりはない」と主張したものの彼とロベルト・ライを除く全員が綱領案に賛成した。 また会議では共産党が提案していた皇室財産没収法案に賛成すべきか否かも議題となった。この件をめぐってはヒトラーが反対したが、ナチス左派を代表するグレゴールは没収に賛成した。ゲッベルスも没収賛成の立場から演説した。フェーダーは「この法案はユダヤ人のペテンであるとヒトラーは主張している」と訴えたものの、野次り倒された。そこへゲッベルスが立ち上がってミュンヘン党指導部を批判するとともに「プチブル主義者アドルフ・ヒトラーは党から追放すべきである」と提案したと伝わる。一方ヒトラー追放動議を出したのはゲッベルスではなくベルンハルト・ルストとする説もある。いずれにしてもヒトラー追放動議はグレゴールが「党内秩序を乱すもの」「行き過ぎた意見」として却下している。 続く2月14日に今度はヒトラーが自分の影響力が強いバンベルクで反撃の会議を招集した(バンベルク会議)。グレゴールとゲッベルスも出席を命じられた。ここでヒトラーは「皇室財産没収を主張する者は銀行や取引所に巣くっているユダヤ人の財産は没収しようとしない嘘吐きである」と断じたうえで「旧諸侯には彼らの権利に属さない物は何一つ渡してはならない。だが、旧諸侯に属する物を不当に奪うこともまた許されない。党は私有財産制と正義を擁護するからだ」と論じた。さらに新綱領案についても一条ずつ批判を加えていき、最後には「(現行党綱領は)我々の信仰、我々の世界観の創立証書である。これに揺さぶりをかけることは、我々の理念を信じて死んでいった人々に対する裏切りを意味する」と結んだ。 ヒトラーがブルジョワとの融和を重視し、国家社会主義から保守主義に転じたと感じたゲッベルスは、すっかりヒトラーに幻滅して、2月15日の日記でヒトラーを罵っている。「ヒトラーの演説は二時間。僕はへとへとになった。何というやつだ。反動なのか?全く始末に負えないぐらぐらした奴だ。ロシア問題は全くの的外れ。イタリアとイギリスは我々の宿命的な盟邦であるだって?ひどい。我々の課題はボルシェヴィズムの粉砕であるだって?ボルシェヴィズムはユダヤ人のこしらえ物であるだって?皇族への補償。法は法である。私有財産制の問題には触れない。ひどい!綱領はこれで結構だ!フェーダーがうなずく。ライがうなずく。シュトライヒャーがうなずく。『こんな連中の中に自分がいるのは心が痛む。』(ゲーテの"ファウスト"からの言葉)短い討論。シュトラッサーが発言する。途切れがちに震えながら不手際に。善良で正直なシュトラッサー…。ああ、我々は向こう側のあの豚どもになんと力及ばざることか。僕には一言も発しえなかった。まるで頭を打ちのめされたようだ」、「僕の人生で最大の失望のひとつだ。僕はもうヒトラーの全幅の期待は持てない。恐ろしいことだ。頼るものがなくなるということは。疲れ果てた。」。
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