南号作戦と終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 10:14 UTC 版)
詳細は「南号作戦」を参照 ヒ86船団とヒ87船団が相次いで空襲による大損害を出した教訓から、ヒ船団は一転して船団の規模を縮小し、標的の分散により被害極限を図る戦術に変更された。これは護衛対象の輸送船が減少する一方で海防艦の大量建造が進み、船団を小さく分割してもそれなりの護衛艦を付することが可能になったためでもあった。わずかな残存輸送船で多くの資源を運ぶため、編成待ち時間を減らして稼行率を高めるねらいもあった。こうして1945年(昭和20年)1月下旬以降のヒ船団は、2 - 3隻の輸送船を同数以上の護衛艦艇が守るという編制が一般化した。なお、別航路の低速石油船団であるミ船団が1944年(昭和19年)末に廃止されており、大型タンカーの枯渇もあって、従来はミ船団に加入したような小型低性能のタンカーもヒ船団に多く加入するようになっている。 大本営は、ルソン島へも連合軍が上陸して南シナ海が連合軍側の勢力圏下になる中、「特攻精神」による突破輸送を唱え、重要資源に限ってシーレーン維持を図る方針を採った。この方針に従い、1945年(昭和20年)1月20日、日本海軍は船団護衛強化のための南号作戦を発令した。 日本側の護衛強化にもかかわらず、船団の被害は止まらなかった。アメリカ海軍の南西太平洋方面潜水艦部隊はルソン島のスービック湾に作戦拠点を前進させ、南シナ海とボルネオ島周辺に20隻もの潜水艦を配置して日本船団を襲った。戦史叢書によれば南号作戦期間中に航行した重要資源船団は15隊、加入輸送船はのべ45隻、護衛艦艇はのべ50隻で、そのうち輸送船20隻と護衛艦4隻が失われた。 3月下旬、大本営は沖縄への連合軍上陸が間近に迫っていると予想し、もはやヒ船団の維持は不可能と判断した。3月16日に南号作戦は一時中止が発令され(そのまま打ち切り)、シンガポール行きで黄海を航行中のヒ99船団、ヒ01船団(2代目)以降の南下予定船団は中止となった。南方に残存する可動船舶を集めて、最後に出航するヒ船団となったヒ88J船団が編成され、3月19日にシンガポールを発ったが、同月29日までに全ての輸送船を撃沈された。ヒ船団の運航停止により、日本の南方占領地からの資源輸送は実質的に終焉を迎えた。
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