協議の家の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 15:22 UTC 版)
「テキサスのインディアン戦争」の記事における「協議の家の戦闘」の解説
コマンチェ族和平代表団が1840年3月にサンアントニオに到着したとき、ペナタッカ隊以外のどの隊も加わってはいなかった。テキサス政府の使節はラマー政権からの指示書に従って、ペナタッカ隊に拘束されている捕虜全員の返還を要求した。さらにテキサスの役人はコマンチェ族がテキサス中部を放棄し、テキサス人の侵入への干渉を止め、白人開拓者全員を避けるよう主張した。 それでも贈り物の申し出に惹き付けられていたペナタッカ隊の33人の酋長や戦士達は、他に32人のコマンチェ族員を伴って来ていた。事実上彼らの全てが家族員か郎党であり、3月19日にサンアントニオに到着した。ペナタッカ隊の著名な穏健派酋長、マクワールーが代表団を取りまとめており、ほんの数人の捕虜、すなわち数人のメキシコ人の子供とマチルダ・ロックハートを連れてきていた。マチルダは1838年に姉妹と共に捕らえられていた16歳の白人少女であり、身体的にまた性的に暴行されたと告発した。火傷の跡や鼻を削がれていたことが彼女の話を裏付けているように見えたので、その証言に異議を唱える信頼できる歴史家は居ない。マチルダは他にも15人の人質がコマンチェ族の手に残っており、部族は1度に一人ずつ身請けさせるつもりだと告げた。 テキサス人はコマンチェ族に人質を全て即座に解放するよう命令したが、彼らはそれを望んだとしてもできなかったであろう。例えば、バッファロー・ハンプとペタ・ノコナ各酋長は捕虜の誰をも返すことに合意しなかった。2人ともこの協議のときに自隊の中にヨーロッパ人の血を引く捕虜を捉えており、その大半はコマンチェ族の中に引き入れられ、部族の中で生まれつきの者も縁組された者もほとんど区別がつかなくなっていたので、彼らを諦めるつもりは些かも無かった。このとき、民兵隊が協議の家のドアを開け放ち、驚くコマンチェ族に降伏を要求した。コマンチェ族は和平の使者が襲われることはないと考えていたので、その弓、槍および火器を外に置いたままにしており、武器としてはベルトにつけたナイフしか無かった。それでも彼らはナイフを抜いて、庭にいる仲間に大声で呼びかけ、必死に戦った。家の中にいた者は1人を除いて殺され、全部で35人が殺され29人が捕虜になった。
※この「協議の家の戦闘」の解説は、「テキサスのインディアン戦争」の解説の一部です。
「協議の家の戦闘」を含む「テキサスのインディアン戦争」の記事については、「テキサスのインディアン戦争」の概要を参照ください。
- 協議の家の戦闘のページへのリンク