協議の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/27 23:43 UTC 版)
大陸会議代表団はフィラデルフィアに戻り、ハウ提督は「我々に何の提案も行わなかった」ことと、「アメリカは無条件の全的な臣従以外の何も期待されていない」と報告した。ジョン・アダムズはその後長年経ってから、ハウ兄弟が提案した恩赦のリストから自分の名前が意図的に外されていたことを知った。大陸会議はその報告書をコメント無しで出版した。ハウ提督が会合の記録を出版しなかったので、その結果はイギリスの弱さを示すものと考える者が多かった。しかし、多くのロイヤリストやイギリスの傍観者の中には、大陸会議の報告書が会合の様子を不正確に伝えていると考える者がいた。あるイギリスの評論家はこの会合について、「彼等は出会い、話をし、別れた。今、戦い続けるしか残されていない。」と記した。ハウ提督は協議の失敗を弟に報告し、2人でニューヨーク市に対する作戦継続の準備に取りかかった。この会合の4日後、イギリス軍はマンハッタン島のキップス湾で上陸し、ニューヨーク市を占領した。 この協議に続く和平ための大きな動きは1778年のことであり、イギリスがカーライル伯爵の率いる和平使節団を占領しているフィラデルフィアに送ったときだった。彼等は大陸会議を交渉相手として認める権限を与えられており、現代のイギリス連邦の自治領にほぼ相当する自治政府を提案した。当時イギリス軍はフィラデルフィアからの撤退を計画しており、アメリカ側がその使節団の権限を与えられていないことも要求したので、この試みは挫折した。 スタテン島和平協議が行われた家は現在、市立公園のカンファランス・ハウス公園の中で博物館として保存されている。アメリカ合衆国国定歴史建造物であり、アメリカ合衆国国家歴史登録財にも指定されている。
※この「協議の後」の解説は、「スタテン島和平協議」の解説の一部です。
「協議の後」を含む「スタテン島和平協議」の記事については、「スタテン島和平協議」の概要を参照ください。
- 協議の後のページへのリンク