医師、作家としてとは? わかりやすく解説

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医師、作家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:10 UTC 版)

北杜夫」の記事における「医師、作家として」の解説

大学卒業後は東京戻り慶應義塾大学病院インターンとなった無給であったため、すでに所帯構えていた兄の斎藤茂太自宅居候せざるを得なかった。精神科医として勤め傍ら雑誌文藝首都』の同人活動継続し川上宗薫佐藤愛子田畑麦彦なだいなだ(なだは、慶應義塾大学病院での後輩でもある)、日沼倫太郎、および雑誌主宰保高徳蔵知己を得る。1954年昭和29年)、『文藝首都』に連載した幽霊』を、田畑の『祭壇とともに装丁自主出版する1955年昭和30年8月トーマス・マン死去同年文藝首都10月号に、辻邦生との「トーマス・マンに就ての対話」を掲載同年12月には山梨県甲府市里吉町県立諸病院(現在は韮崎市旭町上條南割移転した山梨県立北病院)に一年間勤務する甲府時代様子は『どくとるマンボウ医局記』や辻邦生との往復書簡によって知られる1958年昭和33年11月から翌年4月にかけて、水産庁漁業調査船照洋丸船医として乗船しインド洋から欧州にかけて航海したドイツ訪問乗船動機だった。この体験に基づく旅行記エッセイどくとるマンボウ航海記』が同年刊行されると、従来日本文学にない陽性ナンセンスなユーモアにより評判となり、ベストセラーとなる。その後ナチス・ドイツの「夜と霧作戦」をモチーフにした『夜と霧の隅で』で、1960年昭和35年)に第43回芥川龍之介賞受賞する以降小説、エッセイとも、特に若い読者から熱狂的に支持される人気作家となった[要出典]。 大学時代登山経験から、1965年昭和40年)、カラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加。この体験をもとに『白きたおやかな峰』が書かれた。 1969年昭和44年7月下旬フランスパリ滞在中の辻邦生訪ね8月連れ立ってスイスチューリッヒ州のキルヒベルクでトーマス・マン墓参りをする。 1976年昭和51年)から1977年昭和52年)にかけて、新潮社より全集刊行斎藤茂吉生前全集刊行で、親子生前全集完成させた最初の例となった死後刊行では幸田露伴・文親娘がいる)。 1981年昭和56年1月1日から、自宅領土とするミニ独立国「マンボウ・マブゼ共和国主席名乗る同国真の共産主義国家であると称し実在共産主義国家偽者として批判した。特に訪問経験のあるソヴィエト連邦には辛口である。もっとも、原則として政治的発言はしない作家であり、マンボウ・マブゼ共和国についてもシャレ上の意味を持たせる意図はないし、この時の北は極端な躁状態だった。ムツゴロウこと畑正憲対談した際、北がムツゴロウ動物王国マンボウ国で日本から分離独立し、同盟を結ぶ提案したことがある。 日本ブラジル移民について描いた輝ける碧き空の下で』を新潮連載1982年昭和57年)に第一部を、1986年昭和61年)に第二部それぞれ刊行した同年、この第二部によって日本文学大賞受賞

※この「医師、作家として」の解説は、「北杜夫」の解説の一部です。
「医師、作家として」を含む「北杜夫」の記事については、「北杜夫」の概要を参照ください。

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