医師、作家として
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大学卒業後は東京に戻り、慶應義塾大学病院のインターンとなった。無給であったため、すでに所帯を構えていた兄の斎藤茂太の自宅に居候せざるを得なかった。精神科医として勤める傍ら、雑誌『文藝首都』の同人活動は継続し、川上宗薫、佐藤愛子、田畑麦彦、なだいなだ(なだは、慶應義塾大学病院での後輩でもある)、日沼倫太郎、および雑誌主宰の保高徳蔵の知己を得る。1954年(昭和29年)、『文藝首都』に連載した『幽霊』を、田畑の『祭壇』とともに同装丁で自主出版する。1955年(昭和30年)8月トーマス・マン死去。同年『文藝首都』10月号に、辻邦生との「トーマス・マンに就ての対話」を掲載。同年12月には山梨県甲府市里吉町の県立玉諸病院(現在は韮崎市旭町上條南割に移転した山梨県立北病院)に一年間勤務する。甲府時代の様子は『どくとるマンボウ医局記』や辻邦生との往復書簡によって知られる。 1958年(昭和33年) 11月から翌年4月にかけて、水産庁の漁業調査船照洋丸に船医として乗船し、インド洋から欧州にかけて航海した。ドイツ訪問が乗船の動機だった。この体験に基づく旅行記的エッセイ『どくとるマンボウ航海記』が同年に刊行されると、従来の日本文学にない陽性でナンセンスなユーモアにより評判となり、ベストセラーとなる。その後ナチス・ドイツの「夜と霧作戦」をモチーフにした『夜と霧の隅で』で、1960年(昭和35年)に第43回芥川龍之介賞を受賞する。以降、小説、エッセイとも、特に若い読者から熱狂的に支持される人気作家となった[要出典]。 大学時代の登山経験から、1965年(昭和40年)、カラコルム・ディラン峰への遠征隊に医師として参加。この体験をもとに『白きたおやかな峰』が書かれた。 1969年(昭和44年)7月下旬フランスのパリに滞在中の辻邦生を訪ね、8月連れ立ってスイスのチューリッヒ州のキルヒベルクでトーマス・マンの墓参りをする。 1976年(昭和51年)から1977年(昭和52年)にかけて、新潮社より全集を刊行。斎藤茂吉も生前の全集刊行で、親子で生前に全集を完成させた最初の例となった(死後刊行では幸田露伴・文親娘がいる)。 1981年(昭和56年)1月1日から、自宅を領土とするミニ独立国「マンボウ・マブゼ共和国」主席を名乗る。同国は真の共産主義国家であると称し、実在の共産主義国家は偽者として批判した。特に訪問経験のあるソヴィエト連邦には辛口である。もっとも、原則として政治的発言はしない作家であり、マンボウ・マブゼ共和国についてもシャレ以上の意味を持たせる意図はないし、この時の北は極端な躁状態だった。ムツゴロウこと畑正憲と対談した際、北がムツゴロウ動物王国とマンボウ国で日本から分離独立し、同盟を結ぶ提案をしたことがある。 日本のブラジル移民について描いた『輝ける碧き空の下で』を新潮に連載、1982年(昭和57年)に第一部を、1986年(昭和61年)に第二部をそれぞれ刊行した。同年、この第二部によって日本文学大賞を受賞。
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