北満鉄路接収と鉄道総局とは? わかりやすく解説

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北満鉄路接収と鉄道総局

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 20:26 UTC 版)

満洲国国有鉄道」の記事における「北満鉄路接収と鉄道総局」の解説

鉄路総局時代のもっとも大きな出来事は、元東清鉄道北満鉄路接収である。国鉄成立時には中国資本鉄道接収出来ても、ロシア資本である同社までは手が回らなかったのである。しかし、新線建設により国鉄側が包囲をかけたことや、そもそもロシア側にとって他国内を通らなければならないということ路線自体価値失墜しており、最終所有者であったソビエト連邦政府にとって重荷になっていたことから、ソビエト側は接収応じることになった。 そして1935年3月23日北満鉄路鉄路総局によって接収され国鉄線の一部となったこの際、5フィートであった軌間標準軌改軌することになり、2年かけて工事進められた。殊に新京-哈爾浜間は本線につながる路線であり、また特急「あじあ」哈爾浜乗り入れ必要な路線であることから、1935年8月31日未明沿線2500余り保線夫をずらりと配置し始発までのわずか3時間で一気線路ずらして改軌終えたという話は、現在も語りぐさとなっている。これにより、満洲鉄道はごく小さな路線除き全て満鉄国鉄かのどちらかとなったこれにともない満鉄では鉄路総局鉄路建設局、そして満鉄鉄道部全て統合し1936年10月1日に「鉄道総局」として改組した。これは実質的な経営統合であり、満洲内の鉄道統括する事業者として君臨することを意味する一方、ますます国鉄からは本来の所有者である「国」の色が薄れることになった。またこうして満鉄国鉄経営統合行ったことは、国鉄自分たちの自由にしたいと思っていた関東軍意向をくじくものであり、満鉄にとって目障りな存在となっていた関東軍一矢報いたとなったこの間にも新線建設続き、ついに1939年には総営業キロ1万キロ達成した。この時は満洲国パシナ形機関車図案にした記念切手発行されたり、満鉄自身盛大な記念式典挙行したり達成記念映画作ったりと祝賀ムードとなった路線計画の方はこの1万キロ超え時点一段落し、後は細々した支線建設するだけとなっていた。こうして全盛の状態で、太平洋戦争迎えることになる。 開戦後戦時体制強化要請応じるために会社業務機能強化機構簡素化効率化目的とした組織改革が行われることとなり、1943年5月1日本部機能新京移転するとともに鉄道総局廃止され業務本部継承されることになった。この改革により国鉄は完全に満鉄融合した状態で終戦至った

※この「北満鉄路接収と鉄道総局」の解説は、「満洲国国有鉄道」の解説の一部です。
「北満鉄路接収と鉄道総局」を含む「満洲国国有鉄道」の記事については、「満洲国国有鉄道」の概要を参照ください。

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