北満鉄路接収と鉄道総局
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「満洲国国有鉄道」の記事における「北満鉄路接収と鉄道総局」の解説
鉄路総局時代のもっとも大きな出来事は、元東清鉄道の北満鉄路接収である。国鉄成立時には中国系資本の鉄道は接収出来ても、ロシア資本である同社までは手が回らなかったのである。しかし、新線建設により国鉄側が包囲をかけたことや、そもそもロシア側にとって他国内を通らなければならないということで路線自体の価値が失墜しており、最終所有者であったソビエト連邦政府にとって重荷になっていたことから、ソビエト側は接収に応じることになった。 そして1935年3月23日、北満鉄路は鉄路総局によって接収され、国鉄線の一部となった。この際、5フィートであった軌間を標準軌に改軌することになり、2年かけて工事が進められた。殊に新京-哈爾浜間は本線につながる路線であり、また特急「あじあ」の哈爾浜乗り入れに必要な路線であることから、1935年8月31日の未明、沿線に2500人余りの保線夫をずらりと配置し、始発までのわずか3時間で一気に線路をずらして改軌を終えたという話は、現在も語りぐさとなっている。これにより、満洲の鉄道はごく小さな路線を除き、全て満鉄か国鉄かのどちらかとなった。 これにともない、満鉄では鉄路総局・鉄路建設局、そして満鉄の鉄道部を全て統合し、1936年10月1日に「鉄道総局」として改組した。これは実質的な経営統合であり、満洲内の鉄道を統括する大事業者として君臨することを意味する一方、ますます国鉄からは本来の所有者である「国」の色が薄れることになった。またこうして満鉄と国鉄の経営統合を行ったことは、国鉄を自分たちの自由にしたいと思っていた関東軍の意向をくじくものであり、満鉄にとって目障りな存在となっていた関東軍に一矢報いた形となった。 この間にも新線建設は続き、ついに1939年には総営業キロ1万キロを達成した。この時は満洲国でパシナ形機関車を図案にした記念切手が発行されたり、満鉄自身も盛大な記念式典を挙行したり達成記念の映画を作ったりと祝賀ムードとなった。 路線計画の方はこの1万キロ超えの時点で一段落し、後は細々した支線を建設するだけとなっていた。こうして全盛の状態で、太平洋戦争を迎えることになる。 開戦後、戦時体制強化の要請に応じるために会社業務の機能強化や機構の簡素化・効率化を目的とした組織改革が行われることとなり、1943年5月1日に本部機能が新京へ移転するとともに、鉄道総局が廃止されて業務が本部に継承されることになった。この改革により国鉄は完全に満鉄と融合した状態で終戦に至った。
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