分村の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 01:22 UTC 版)
「長尾村 (兵庫県川辺郡)」の記事における「分村の経緯」の解説
長尾村は昭和の大合併において、隣接する複数の自治体が廃止される自治体の領域を分割編入する「分合両用」に基づき“分村”が行われた自治体の代表例とされる。 この当時、長尾村では学制改革に合わせて新制中学校を建設する話が持ち上がっていた。しかし、その建設費用が大きな財政負担を伴うことを懸念する声が荒牧や鴻池など村南部を中心に広がり、これらの地区では1940年(昭和15年)に市制を施行していた伊丹市との合併を求めて今里浅太郎村長への陳情が行われた。この動きに対し、山本を中心とする北部地域は川西町や小浜村が推進していた「北部都市建設構想」に参加すべきであるとの意見が優勢となり、文字通り村を二分する大論争に発展した。 結果、1949年(昭和24年)2月4日に行われた村民大会では伊丹市との合併に反対する決議が僅差で採択されたのに対し、2日後の2月6日に開かれた村議会では正反対に伊丹市との合併議案が可決された。宝塚派の村民は「村議会が民意を踏みにじった」と非難してリコール署名を行い、村議会は解散に追い込まれる。これにより伊丹市との合併議案は一旦解消され、今里村長は混乱の責任を取って辞任した。 1955年(昭和30年)2月、後任で中間派の池田宝澄村長(元中山寺管長)と宝塚(同年に良元村と新設合併し市制施行)・伊丹の両市長は合併を巡る混乱が5年以上も続く事態を憂慮して共同で阪本勝兵庫県知事に仲裁を要請する。その結果、知事の裁定で以下の手続きを経て長尾村を南北に分村し、両市に編入することが決定した。 1955年(昭和30年)3月10日付で長尾村の全域を宝塚市に一度編入する 編入が公示された後、宝塚・伊丹の両市は臨時市議会を招集し両市間での境界変更議案を可決する 4月1日付で両市の境界変更を実施し、旧長尾村南部の荒牧・荻野・鴻池・西池・桑田・大野の6地区を伊丹市が編入する 丸橋・口谷両地区は代表者が今里前村長への陳情に参加するなど伊丹派の住民が多いと目されていたが、宝塚派が多数の山本地区と水利権で争うことを良しとせず宝塚への残留を選択した。対して、元から伊丹郷町に近接している大野新田の大部分は山本との対立を覚悟で「水が買えなくなったら井戸を掘る」として荒牧や鴻池と共に伊丹市への帰属を選択した。また、酒造業で興隆した鴻池財閥の発祥地である鴻池の伊丹市への帰属は、結果的に江戸時代を通じて全国的なブランドであった伊丹酒のイメージを現代においてより強固なものとすることに繋がっている。
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