分村合併の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 21:27 UTC 版)
1953年(昭和28年)に町村合併促進法が施行されると、篠井村では富屋村・大沢村との合併を検討した。翌1954年(昭和29年)2月22日に栃木県町村合併促進審議会は、篠井・富屋・大沢の3村に国本村・城山村を加える案を提示した。すると合併後の自治体面積が広すぎるなどと反発が起こり、見直し要求が為された。そこで5月2日の町村合併計画では、篠井村北部を今市市へ、南部を宇都宮市へ編入するという分村合併案が提示された。篠井村は元々、北部と南部で小中学校の学区が異なり、北部は今市、南部は宇都宮との結び付きが強かったことから、分村合併案は静穏に受け入れられた。分村に当たり、診療所は宇都宮へ、役場庁舎は今市へ帰属させ、大字篠井字金山2078番地1の村有林は、今市へ16.931 ha、宇都宮へ13.979 ha分割することになった。役場庁舎は宇都宮へ編入される領域にあったため、建物は今市側(塩野室76番地1)へ移転し、その庁舎は今市市役所塩野室支所となった。また村有林に引かれた境界線は、そのまま今市と宇都宮の境界線となった。 分村時にありがちな住民間の対立や分村後のしこりは発生しなかった。1984年(昭和59年)11月30日には、南北に分かたれた旧篠井村の住民が資金を出し合って、村役場の跡地に記念碑を建立した。
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