八王子での宣教とは? わかりやすく解説

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八王子での宣教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 16:59 UTC 版)

ジェルマン・レジェ・テストウィード」の記事における「八王子での宣教」の解説

テストウィード神父は、1876年より下壱分方訪れて宣教開始。さらに下壱分方から距離にして一里ほどの八王子でも宣教始める。江戸時代からの宿場町であった八王子は、明治時代には横浜港経由での生糸織物輸出栄え絹の道」と呼ばれた神奈川往還通じて横浜とは縁の深い町であった横浜信徒一家郷里八王子移住し自宅提供したことから、神父は彼らの家に泊まり八王子をたびたび訪れるようになる1884年明治17年)には八日町一軒家借りて伝道士が住み、そこを拠点として八王子での宣教を本格化し、1889年明治22年)には三崎町礼拝堂完成したまた、日本における部落解放運動先駆者であった山上(やまかみ たくじゅ、1855年 - 1931年)は、パリ外国宣教会宣教師らが活動していた横浜キリスト教触れ、テストウィード神父から洗礼を受ける。青年伝道士としてテストウィード神父のもとで活動し故郷元八王子村大字壱分方(現:八王子市泉町)に教会建てた。これが現在のカトリック八王子教会泉町教会である。 卓の妹の山上カク1863年 - 1939年)も郷里八王子受洗し18歳横浜サン・モール修道会幼きイエス会)の修道女となる。サン・モール修道会横浜山手日本初孤児院仁慈堂」を運営しており、カクは兄から物心ともに援助を受け、横浜孤児貧し人々助けていた。「仁慈堂」は1902年明治35年)には「女学校」に発展するが、1923年大正12年)の関東大震災被災しカクらは生き残った孤児連れて東京府下の荻窪へ移る。1927年昭和2年)には高円寺へ移るが、この敷地1931年昭和6年)に光塩高等女学校譲渡し修道院高田馬場移転した。そして孤児たちのための学校建設始め1933年昭和8年)に田園調布女学尋常小学校(現:田園調布雙葉小学校)が開校修道院児童世話をする無月謝の学校であった横浜戻ったカク晩年1939年昭和14年4月25日横浜市から社会福祉事業功労者として表彰受けたが、病気表彰式には出られず若い修道女代わりに行かせた。同年には死去している。テストウィード神父蒔いた信仰の種は横浜八王子の地で受け継がれ山上カク兄妹差別され人々への神の愛信じ実践通して宣教したのであった

※この「八王子での宣教」の解説は、「ジェルマン・レジェ・テストウィード」の解説の一部です。
「八王子での宣教」を含む「ジェルマン・レジェ・テストウィード」の記事については、「ジェルマン・レジェ・テストウィード」の概要を参照ください。

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