八王子での宣教
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「ジェルマン・レジェ・テストウィード」の記事における「八王子での宣教」の解説
テストウィード神父は、1876年より下壱分方村を訪れて宣教を開始。さらに下壱分方から距離にして一里ほどの八王子でも宣教を始める。江戸時代からの宿場町であった八王子は、明治時代には横浜港経由での生糸・織物の輸出で栄え「絹の道」と呼ばれた神奈川往還を通じて、横浜とは縁の深い町であった。 横浜の信徒一家が郷里の八王子に移住し自宅を提供したことから、神父は彼らの家に泊まり八王子をたびたび訪れるようになる。1884年(明治17年)には八日町に一軒家を借りて伝道士が住み、そこを拠点として八王子での宣教を本格化し、1889年(明治22年)には三崎町に礼拝堂が完成した。また、日本における部落解放運動の先駆者であった山上卓樹(やまかみ たくじゅ、1855年 - 1931年)は、パリ外国宣教会の宣教師らが活動していた横浜でキリスト教に触れ、テストウィード神父から洗礼を受ける。青年伝道士としてテストウィード神父のもとで活動し、故郷の元八王子村大字壱分方(現:八王子市泉町)に教会を建てた。これが現在のカトリック八王子教会と泉町分教会である。 卓樹の妹の山上カク(1863年 - 1939年)も郷里の八王子で受洗し、18歳で横浜のサン・モール修道会(幼きイエス会)の修道女となる。サン・モール修道会は横浜・山手で日本初の孤児院「仁慈堂」を運営しており、カクは兄から物心ともに援助を受け、横浜で孤児や貧しい人々を助けていた。「仁慈堂」は1902年(明治35年)には「菫女学校」に発展するが、1923年(大正12年)の関東大震災で被災し、カクらは生き残った孤児を連れて東京府下の荻窪へ移る。1927年(昭和2年)には高円寺へ移るが、この敷地は1931年(昭和6年)に光塩高等女学校へ譲渡し、修道院は高田馬場へ移転した。そして孤児たちのための学校建設を始め、1933年(昭和8年)に田園調布に菫女学院尋常小学校(現:田園調布雙葉小学校)が開校。修道院が児童の世話をする無月謝の学校であった。横浜に戻ったカクは晩年、1939年(昭和14年)4月25日に横浜市から社会福祉事業の功労者として表彰を受けたが、病気で表彰式には出られず若い修道女を代わりに行かせた。同年には死去している。テストウィード神父の蒔いた信仰の種は横浜と八王子の地で受け継がれ、山上卓樹・カク兄妹は差別される人々への神の愛を信じ、実践を通して宣教したのであった。
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