全日本選抜とは? わかりやすく解説

全日本選抜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:37 UTC 版)

ヴィクトル・スタルヒン」の記事における「全日本選抜」の解説

旧制中学3年生1934年11月25日当時日米野球のため来日していたアメリカ大リーグ選抜チーム対戦する全日本チーム半ば強引に引き抜かれそうになる前年日米野球17全敗喫し、その年も開始から5連敗喫していた全日本監督市岡忠男にとって、先ず1勝を挙げるという至上命令のための「怪投手引き抜きというアイデアであったプロ野球誕生しておらず、野球人気六大学アマチュア支えていた当時文部省は「学生野球選手プロ球団戦わせてはならない」と通達したため、全日本チーム母体として主催読売新聞職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成京都商業沢村栄治中退させたのと同様の手口スタルヒン退学させてチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川スカウトを送るものの、地元スター引き抜かれることに旭川市民と学校側抵抗した旭川中学校甲子園出場させるという願い持っていたスタルヒン本人にとっては苦渋の決断であったが、先述経済事情加えさらには亡命者であるだけに断れ家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還とする可能性ほのめかされという事情もあり、断るわけにもいかず、旭川中を中退後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京したクラスメートには一切事情知らせないまま夜逃げをするように列車乗ったという。汽笛が「行くなぁ!」という仲間達叫び聞こえた、と後年妻に語っている。 中学中退全日本チーム、そして巨人入団へ背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー正力松太郎意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前警視庁実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家恫喝したからである」と作家佐野眞一著書の中で断言している。 日米野球17戦に初登板し、3番手として1イニング無安打無失点抑える。しかし試合はすでに趨勢決まっていて、スタルヒン制球悪さに、米国チーム逃げ腰であった結果だった。 1934年11月29日埼玉県営大宮公園野球場開催された同第17戦の8回から敗戦処理で2イニング投げ、これがプロ野球選手としてデビューとなった1935年2月からのアメリカ遠征参加することになるが、ここで右翼大物である玄洋社頭山満から干渉を受け、すんなりとは決まらなかった。さらに、無国籍だったためパスポート支給されず、出国の際に警視庁から「国外行ってよい」との許可証もらっただけであったサンフランシスコ到着しても、パスポートがないためビザ下りずに入国できず、無許可移民見做され危うく収容所送られそうになったところ、フランク・オドールらが奔走してようやく入国運びとなったまた、日本の小学校通学していた田舎者少年であったスタルヒン水原茂と同部屋になった際、自らも白人であるにも関わらず先輩アメリカって外国人ばかりですね」「外国人って全然、日本語喋らないんですね」と感想漏らし水原呆れさせたという。

※この「全日本選抜」の解説は、「ヴィクトル・スタルヒン」の解説の一部です。
「全日本選抜」を含む「ヴィクトル・スタルヒン」の記事については、「ヴィクトル・スタルヒン」の概要を参照ください。

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