全日本選手権大会とは? わかりやすく解説

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日本選手権大会

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/06 07:31 UTC 版)

日本選手権大会(にほんせんしゅけんたいかい、Japanese National Championships)は、スポーツゲームなどの分野において、各競技・種目別の日本一を決めるための選手権大会である。全日本選手権大会ないしは全日本総合選手権大会や全国大会やナショナルチャンピオンシップスと呼ばれることもある。




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全日本選手権大会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 00:23 UTC 版)

醍醐敏郎」の記事における「全日本選手権大会」の解説

1949年5月5日(於:仮設国技館) - 開場前から多く観衆長蛇の列成し開場同時に潮の如く雪崩れ込んで日本橋浜町仮説国技館瞬く間超満員盛況となった観戦訪れた皇太子講道館嘉納履正館長らも見守る中、北海道から九州まで全国より選ばれ16人の選手によって催され全日本大会東京代表として初出場した醍醐は、初戦九州代表の吉松義彦6段を跳腰返2回戦信越代表の伊藤秀雄小内刈降し石川隆彦6段との準決勝戦では延長にもつれ込んで最後石川一本背負投屈したものの、初出場ながら3位入賞果たした丸山三造9段醍醐について、「姿勢態度技術に於いて実に堂々たるものがあり、勝敗超越して虚心担懐すがすがし試合見せた」と評していた。 1950年5月5日(於:スポーツセンター) - 大会当日激しい雨が降りしき中にも拘らず定刻前に会場一杯となる客の入りで、試合会場スポーツセンター係員も「センター始まって以来盛況」と驚いていたという。前大会と同様全国精鋭16人が顔を揃えこのうち半分の8人が初出場であった東京代表の醍醐初戦東北代表の岩淵佶6段、2回戦東海代表の伊藤秀雄6段を退けて自他共に初優勝期待が高まるが、準決勝戦11歳年長ベテラン広瀬巌一本背負投辛酸舐めまたしても第3位甘んじた1951年5月5日(於:旧両国国技館) - 戦後4回目大会となる全日本大会出場者をそれまでの2倍の32人とし、午後1時からの試合開始にも拘らず早くから押し寄せた観衆定刻前に余す所も無く会場埋め尽くした自身3度目出場となる醍醐優勝候補最有力目され、これに応えるかのように北海道強豪二瓶英雄5段、九州代表で若手重松正夫4段同じく九州代表で元全日本王者松本安市7段を立て続け破り準決勝戦羽鳥輝久6段を得意の大外落仕留めると、大方の予想通り決勝戦醍醐吉松義彦6段との顔合わせになった互いに自然体に組むや、吉松立て続け内股繰り出し醍醐これをよく防ぐと逆に内股応戦するが、腰の重い吉松相手効果無かったその後互いに左右内股攻め合いこのまま時間一杯試合終了となれば判定吉松にやや有利かという場面で醍醐内股から小内刈変化すれば、吉松が体(たい)を泳がせて一気形勢逆転焦り覚えた吉松醍醐渾身の大外刈浴びせるが、醍醐はそれを鮮やかな大外返返して一本勝を奪い全日本制覇となった歴史に残る名勝負固唾飲んで見守った観衆両者怒涛のような拍手送ったという。この試合について吉松は後に「(小内刈見舞われて)明らかに精神的な同様があった」「(右技の切れる醍醐相手に)掛けてはならぬ右の大外刈攻めてしまった」と振り返り、「沈着なければならない試合平静失ったのは不覚」と悔いていた。また醍醐は、大会そのものを「力一杯、何も考えず頑張って終わってみたら、優勝だったという感じ」と述べ、「この優勝奢る事なく、寧ろ全日本王者として技術体力維持しなければ」と自戒したという。 1952年5月18日(於:旧両国国技館) - 全日本大会人気益々高まって会場の旧両国国技館活況呈し満員御礼会場入れなかった観衆は、何とか席を空けさせよう苦肉の策大会役員面会称し嘘の会場アナウンス呼び出したり、腹いせガラス割ったりする有様だった。この大会前年王者として醍醐は、初戦九州代表の石橋弥一郎6段、2回戦信越代表の高島道夫6段、3回戦近畿代表の伊勢茂一6段を降して準決勝戦に進むも、前年雪辱を誓う吉松義彦6段の内股に畳を背負い3位に留まった。大会論評丸山三造9段は「今度試合上出来とは言えなかったが、何もかも揃っている選手だから精進次第では大成するだろう」と、醍醐の一層の躍進期待していた。 1954年5月5日(於:旧両国国技館) - 大会当日は輝くばかりの日本晴で、引き続き人気博していた全日本大会早暁から多く観衆詰め掛けて混雑となり、止む無く9時開場予定30分切り上げている。太平洋戦争による戦前・戦後混乱落ち着き見せ始めた柔道界もこの頃には徐々に世代交代進み1954年大会で出場32名のうち約8割に当たる25名が戦後学生柔道界で育った選手で、醍醐含め戦前学生時代過ごした選手は僅か7名にまで減っていた。醍醐はこの時28歳で、体力的に選手としてのピークをやや過ぎていたもの体調万全で臨む事ができ、中国代表の山肩敏美6段、九州代表の石橋弥一郎6段、同じく九州代表で小兵橋元親6段を破ってトーナメント勝ち上がると、準決勝戦では後に世界王者となる東北代表の夏井昇吉5段を大外刈沈め決勝戦では醍醐より5歳年長身長・体重とも一回り大きく武専出身近畿代表・中村常男7段と覇を争った試合互いに右に組むと先に中村内股仕掛け、これを受けた醍醐は同じ内股小内刈攻め返すどしたが互いに効果的な技が無いまま15分ほど経過。ここで中村は得意の右内股ではなく意表をついて左の内股繰り出すが、醍醐はこれを巧く返して技有を奪い終に試合均衡崩れた中村は立ち上がるも、観念したのか顔には笑みすら浮かべその後互いに自重したまま小競り合い程度の技を出すのみで試合時間一杯20分を終了最後主審三船久蔵10段裁定により醍醐判定勝が宣せられ、自身2度目優勝飾った。なお、この大会に臨むに当たり醍醐は、一本を取るのが難し相手との試合最初から判定勝を狙っていく事を目論んでおり、実際に3回戦までいずれも判定での勝利だったため当時新聞では「計算し過ぎ」とバッシング受けたりもしたが、醍醐は後にインタビューで「ある程度流れ読んで試合ができる程ズルくなっていた」「それだけ余裕出来ていたのかも知れないし、弱っていたのかも知れない」と笑っていた。 1958年5月5日(於:東京体育館) - 32歳で迎え1958年第10回全日本選手権大会は、約1万2,000人の大観衆を集め千駄ヶ谷東京都体育館開催醍醐前年東京都選手権大会負った左足靭帯負傷癒えず不安を抱えたままの出場であった初戦近畿代表の古賀正躬5段(天理大学)と相見え、小内刈にいったハナ古賀支釣込足バランス崩してしまい、醍醐左足場外踏み出して左手を畳についたその後時間一杯戦って判定となると先のお手付き判定材料となり、菊池揚二副審醍醐優勢裁定したもののも、もう一人副審である大美夫と主審森下勇は古賀方に旗を上げ醍醐僅差判定敗れた醍醐師匠でもある三船久蔵10段戦評で「醍醐姿勢態度良く古賀決し悪くなかったが、とかく押され気味で外側になっていたから、いくらか醍醐の方が優勢であったように思う」「審判批判するわけではないが、この勝敗見ようによっては逆の結果にもなり得るもので、優勝候補醍醐第一回戦早くも姿を消したのは惜しかった」と述べていた。いずれにしても全盛期を過ぎ、また負傷押して出場となった醍醐なりの精一杯の大健闘であった。なお選手権曽根康治獲得し永く続いた吉松醍醐夏井時代の終わり柔道ファン印象付ける大会ともなった点は特筆される

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全日本選手権大会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 00:13 UTC 版)

大沢慶己」の記事における「全日本選手権大会」の解説

1949年5月5日(於:仮設国技館) - 会場には皇太子講道館嘉納履正館長らの顔触れがあり、超満員観衆の元、16人の精鋭によって催され全日本大会大沢関東代表として出場した初戦東北王者ベテラン島谷一美六段顔を合わせ、これを釣込腰で宙に舞わせた。2回戦では8年振りの大試合となる木村政彦七段と相対。しっかり組もう前に出る木村対し大沢ヒラリヒラリ軽やかに身を跳ばし、これに翻弄されまいと木村前に出るのをやめ、逆に後退して大沢を誘う展開に。大沢はこれを受けて軽い足捌き2,3出たが、そこに木村タックル強襲し、虚をつかれた大沢の体(たい)は畳に転げ落ちた大沢すぐさま上体起こそうとしたが、この時木村は既に寝技に入る態勢で、そのまま崩上四方固抑え込まれ一本負け喫した木村は後に著書で「小兵ならではの体捌きは、まさに小天狗のごとき素早さであった」と大沢称賛し、また後日、この大会決勝戦激突した石川隆彦誘われ石川と仲の良かった大沢含めて3人で盃を交わし、「3人で呑んだ酒は旨かった」と述懐している。 1950年5月5日(於:スポーツセンター) - 戦後3回目大会となる全日本大会には、前大会と同様全国俊英16人が顔を揃えこのうち8人が初出場であった大会当日生憎空模様であったが、会場立錐の余地もない客の入り様に関東代表の大沢初戦で、2年前の王者である九州代表の松本安市六段対し身長184cmで2回りほども大き松本投げる事はできなかったが、逆に投げられる事もなく、結果僅差判定松本軍配上がった小さな大沢優勝候補松本相手によく戦う姿に、満員観衆大変な盛り上がりであったという。 1952年5月18日(於:旧両国国技館) - 全日本選手権大会も益々人気となり、会場入れない観客の姿すらあった。選手権32人で争われ関東代表の大沢初戦東海代表の熊田吉夫五段を鮮やかな送足払で宙に舞わせ、2回戦では東京代表の遠藤栄四段対峙途中大沢釣込腰場外落ちた遠藤頭部強打し試合中断するというアクシデントがあったが、最後体落でこれを降した3回戦では九州代表の吉松義彦六段対し吉松得意の大外刈屈するも、身長167cmの小躯ながら2度目ベスト8進出という快挙多く柔道ファン感銘与えた1954年5月5日(於:旧両国国技館) - 最後の出場となった全日本選手権には28歳出場当日は輝くばかりの日本晴で、引き続き人気博していた全日本大会早暁から多く観衆詰め掛け、9時開場予定30分切り上げ有様だった。早稲田大学教員となっていた大沢東京代表で出場したが、初戦台頭目覚ましい秋田県警警察官夏井昇吉五段に優勢敗れ上位進出はならなかった。身長はさほど変わらないが、30kg近い体重差は如何ともしがたかったと言える大沢身長167cm・体重67kgに対し夏井身長174cm・体重100kg)。なお、大沢と同じ年齢夏井はこの大会で戸高清光六段岡山長年四段立て続け破って準決勝戦まで進出して3位入賞、更に翌55年大会で準優勝するなどして頭角現し1956年世界選手権大会制して初代世界王者輝いている。

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