日本選手権大会
全日本選手権大会
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1949年5月5日(於:仮設国技館) - 開場前から多くの観衆が長蛇の列を成し、開場と同時に潮の如く雪崩れ込んで日本橋浜町の仮説国技館は瞬く間に超満員の盛況となった。観戦に訪れた皇太子や講道館嘉納履正館長らも見守る中、北海道から九州まで全国より選ばれた16人の選手によって催された全日本大会に東京代表として初出場した醍醐は、初戦で九州代表の吉松義彦6段を跳腰返、2回戦で信越代表の伊藤秀雄を小内刈に降し、石川隆彦6段との準決勝戦では延長にもつれ込んで最後は石川の一本背負投に屈したものの、初出場ながら3位入賞を果たした。丸山三造9段は醍醐について、「姿勢、態度、技術に於いて実に堂々たるものがあり、勝敗を超越して虚心担懐すがすがしい試合を見せた」と評していた。 1950年5月5日(於:芝スポーツセンター) - 大会当日は激しい雨が降りしき中にも拘らず定刻前には会場一杯となる客の入りで、試合会場のスポーツセンター係員も「センター始まって以来の盛況」と驚いていたという。前大会と同様全国の精鋭16人が顔を揃え、このうち半分の8人が初出場であった。東京代表の醍醐は初戦で東北代表の岩淵佶6段、2回戦で東海代表の伊藤秀雄6段を退けて自他共に初優勝の期待が高まるが、準決勝戦で11歳年長のベテラン・広瀬巌の一本背負投に辛酸を舐め、またしても第3位に甘んじた。 1951年5月5日(於:旧両国国技館) - 戦後4回目の大会となる全日本大会は出場者をそれまでの2倍の32人とし、午後1時からの試合開始にも拘らず早くから押し寄せた観衆は定刻前には余す所も無く会場を埋め尽くした。自身3度目の出場となる醍醐は優勝候補の最有力と目され、これに応えるかのように北海道の強豪・二瓶英雄5段、九州代表で若手の重松正夫4段、同じく九州代表で元全日本王者の松本安市7段を立て続けに破り、準決勝戦で羽鳥輝久6段を得意の大外落に仕留めると、大方の予想通り決勝戦は醍醐と吉松義彦6段との顔合わせになった。互いに右自然体に組むや、吉松が立て続けに内股を繰り出し、醍醐これをよく防ぐと逆に内股で応戦するが、腰の重い吉松を相手に効果は無かった。その後も互いに左右の内股で攻め合い、このまま時間一杯で試合終了となれば判定は吉松にやや有利かという場面で、醍醐が内股から小内刈に変化すれば、吉松が体(たい)を泳がせて一気に形勢逆転。焦りを覚えた吉松は醍醐に渾身の大外刈を浴びせるが、醍醐はそれを鮮やかな大外返で返して一本勝を奪い、全日本初制覇となった。歴史に残る名勝負を固唾を飲んで見守った観衆は両者に怒涛のような拍手を送ったという。この試合について吉松は後に「(小内刈を見舞われて)明らかに精神的な同様があった」「(右技の切れる醍醐を相手に)掛けてはならぬ右の大外刈で攻めてしまった」と振り返り、「沈着でなければならない大試合で平静を失ったのは不覚」と悔いていた。また醍醐は、大会そのものを「力一杯、何も考えずに頑張って終わってみたら、優勝だったという感じ」と述べ、「この優勝に奢る事なく、寧ろ全日本王者として技術・体力を維持しなければ」と自戒したという。 1952年5月18日(於:旧両国国技館) - 全日本大会の人気も益々高まって会場の旧両国国技館は活況を呈し、満員御礼で会場に入れなかった観衆は、何とか席を空けさせようと苦肉の策で大会役員を面会と称し嘘の会場アナウンスで呼び出したり、腹いせにガラスを割ったりする有様だった。この大会に前年王者として醍醐は、初戦で九州代表の石橋弥一郎6段、2回戦で信越代表の高島道夫6段、3回戦で近畿代表の伊勢茂一6段を降して準決勝戦に進むも、前年の雪辱を誓う吉松義彦6段の内股に畳を背負い3位に留まった。大会論評で丸山三造9段は「今度の試合は上出来とは言えなかったが、何もかも揃っている選手だから精進次第では大成するだろう」と、醍醐の一層の躍進を期待していた。 1954年5月5日(於:旧両国国技館) - 大会当日は輝くばかりの日本晴で、引き続き人気を博していた全日本大会は早暁から多くの観衆が詰め掛けて大混雑となり、止む無く9時開場の予定を30分切り上げている。太平洋戦争による戦前・戦後の混乱が落ち着きを見せ始めた柔道界もこの頃には徐々に世代交代が進み、1954年大会では出場者32名のうち約8割に当たる25名が戦後の学生柔道界で育った選手で、醍醐を含め戦前に学生時代を過ごした選手は僅か7名にまで減っていた。醍醐はこの時28歳で、体力的には選手としてのピークをやや過ぎていたものの体調万全で臨む事ができ、中国代表の山肩敏美6段、九州代表の石橋弥一郎6段、同じく九州代表で小兵の橋元親6段を破ってトーナメントを勝ち上がると、準決勝戦では後に世界王者となる東北代表の夏井昇吉5段を大外刈に沈め、決勝戦では醍醐より5歳年長で身長・体重とも一回り大きく武専出身の近畿代表・中村常男7段と覇を争った。試合は互いに右に組むと先に中村が内股を仕掛け、これを受けた醍醐は同じ内股や小内刈で攻め返すなどしたが、互いに効果的な技が無いまま15分ほど経過。ここで中村は得意の右内股ではなく意表をついて左の内股を繰り出すが、醍醐はこれを巧く返して技有を奪い終に試合の均衡が崩れた。中村は立ち上がるも、観念したのか顔には笑みすら浮かべ、その後は互いに自重したまま小競り合い程度の技を出すのみで試合時間一杯20分を終了。最後は主審の三船久蔵10段の裁定により醍醐の判定勝が宣せられ、自身2度目の優勝を飾った。なお、この大会に臨むに当たり醍醐は、一本を取るのが難しい相手との試合は最初から判定勝を狙っていく事を目論んでおり、実際に3回戦までいずれも判定での勝利だったため当時の新聞では「計算し過ぎ」とバッシングを受けたりもしたが、醍醐は後にインタビューで「ある程度流れを読んで試合ができる程ズルくなっていた」「それだけ余裕が出来ていたのかも知れないし、弱っていたのかも知れない」と笑っていた。 1958年5月5日(於:東京体育館) - 32歳で迎える1958年の第10回全日本選手権大会は、約1万2,000人の大観衆を集め千駄ヶ谷の東京都体育館で開催。醍醐は前年の東京都選手権大会で負った左足靭帯の負傷が癒えず不安を抱えたままの出場であった。初戦で近畿代表の古賀正躬5段(天理大学)と相見え、小内刈にいったハナを古賀の支釣込足でバランスを崩してしまい、醍醐は左足を場外に踏み出して左手を畳についた。その後時間一杯を戦って判定となると、先のお手付きが判定の材料となり、菊池揚二副審は醍醐の優勢と裁定したもののも、もう一人の副審である大蝶美夫と主審の森下勇は古賀の方に旗を上げ、醍醐は僅差の判定で敗れた。醍醐の師匠でもある三船久蔵10段は戦評で「醍醐は姿勢も態度も良く、古賀も決して悪くなかったが、とかく押され気味で外側になっていたから、いくらか醍醐の方が優勢であったように思う」「審判を批判するわけではないが、この勝敗は見ようによっては逆の結果にもなり得るもので、優勝候補醍醐が第一回戦で早くも姿を消したのは惜しかった」と述べていた。いずれにしても、全盛期を過ぎ、また負傷を押しての出場となった醍醐なりの精一杯の大健闘であった。なお選手権は曽根康治が獲得し、永く続いた吉松・醍醐・夏井時代の終わりを柔道ファンに印象付ける大会ともなった点は特筆される。
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全日本選手権大会
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1949年5月5日(於:仮設国技館) - 会場には皇太子や講道館嘉納履正館長らの顔触れがあり、超満員の観衆の元、16人の精鋭によって催された全日本大会に大沢は関東代表として出場した。初戦で東北王者のベテラン・島谷一美六段と顔を合わせ、これを釣込腰で宙に舞わせた。2回戦では8年振りの大試合となる木村政彦七段と相対。しっかり組もうと前に出る木村に対し大沢はヒラリヒラリと軽やかに身を跳ばし、これに翻弄されまいと木村は前に出るのをやめ、逆に後退して大沢を誘う展開に。大沢はこれを受けて軽い足捌きで2,3歩出たが、そこに木村のタックルが強襲し、虚をつかれた大沢の体(たい)は畳に転げ落ちた。大沢はすぐさま上体を起こそうとしたが、この時木村は既に寝技に入る態勢で、そのまま崩上四方固に抑え込まれて一本負けを喫した。木村は後に著書で「小兵ならではの体捌きは、まさに小天狗のごとき素早さであった」と大沢を称賛し、また後日、この大会の決勝戦で激突した石川隆彦に誘われ、石川と仲の良かった大沢も含めて3人で盃を交わし、「3人で呑んだ酒は旨かった」と述懐している。 1950年5月5日(於:芝スポーツセンター) - 戦後3回目の大会となる全日本大会には、前大会と同様全国の俊英16人が顔を揃え、このうち8人が初出場であった。大会当日は生憎の空模様であったが、会場は立錐の余地もない客の入り様に。関東代表の大沢は初戦で、2年前の王者である九州代表の松本安市六段と対し、身長184cmで2回りほども大きい松本を投げる事はできなかったが、逆に投げられる事もなく、結果は僅差の判定で松本に軍配が上がった。小さな大沢が優勝候補の松本を相手によく戦う姿に、満員の観衆は大変な盛り上がりであったという。 1952年5月18日(於:旧両国国技館) - 全日本選手権大会も益々人気となり、会場に入れない観客の姿すらあった。選手権は32人で争われ、関東代表の大沢は初戦で東海代表の熊田吉夫五段を鮮やかな送足払で宙に舞わせ、2回戦では東京代表の遠藤栄四段と対峙。途中、大沢の釣込腰で場外に落ちた遠藤が頭部を強打し試合を中断するというアクシデントがあったが、最後は体落でこれを降した。3回戦では九州代表の吉松義彦六段と対し、吉松得意の大外刈に屈するも、身長167cmの小躯ながら2度目のベスト8進出という快挙は多くの柔道ファンに感銘を与えた。 1954年5月5日(於:旧両国国技館) - 最後の出場となった全日本選手権には28歳で出場。当日は輝くばかりの日本晴で、引き続き人気を博していた全日本大会は早暁から多くの観衆が詰め掛け、9時開場の予定を30分切り上げる有様だった。早稲田大学の教員となっていた大沢は東京代表で出場したが、初戦で台頭目覚ましい秋田県警警察官の夏井昇吉五段に優勢で敗れ上位進出はならなかった。身長はさほど変わらないが、30kg近い体重差は如何ともしがたかったと言える(大沢の身長167cm・体重67kgに対し、夏井は身長174cm・体重100kg)。なお、大沢と同じ年齢の夏井はこの大会で戸高清光六段、岡山長年四段を立て続けに破って準決勝戦まで進出して3位入賞、更に翌55年大会では準優勝するなどして頭角を現し、1956年の世界選手権大会を制して初代世界王者に輝いている。
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