京都奪回と最期
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永正15年(1518年)8月2日、義興が周防に帰国し高国政権が弱体化、これを好機と見た之長は翌永正16年(1519年)5月11日に高国方となっていた尚春を殺害した。殺害の理由は尚春の裏切り及び子息の阿波守護補任問題の他に之長と尚春の対立が絡んでいたとも、淡路の直接支配及び播磨灘・瀬戸内海など周辺海域を狙った之長の謀略ともいわれている。 10月には摂津有馬郡の池田三郎五郎(信正)が澄元に味方して下田中城に立て籠もり、10月22日に高国方の瓦林正頼が攻撃をかけたが敗れた。この動きを知った之長は澄元と共に11月6日(9日とも)に兵庫に上陸し、正頼が籠もる摂津越水城を包囲した(田中城の戦い)。包囲中の12月19日に京都で前日に合戦があって之長父子が戦死したという噂が流れて大いに喜ばれたというが、誤報に過ぎない。 永正17年(1520年)1月には高国方の内藤貞正と伊丹国扶による越水城の救援が敗北して失敗し、城は2月3日に陥落した。またこの時、京都では郷民が入京して騒ぎを起こし略奪をして徳政を叫んだため、高国軍は退却したがその途上でも西岡衆などの追撃を受けて「落ちる者どもを殺し、あるいは具足をはぐ」という有様だった。之長は高国方の状況を見て2月16日に尼崎方面に進出、高国は2月18日に近江の坂本に逃れた。義稙はこの頃には高国と対立して澄元と内通していたため、高国と行動を共にせず京都に止まった。 高国の敗走後、過去の苦い経験から直ちに入洛せず、20日に大山崎に着陣して待機、3月18日には徳政免除などをして同地の住民を保護したが、三好軍は伏見庄や三栖庄などを荒掠した。27日に9年ぶりの上洛を果たし、摂津伊丹城で待機していた澄元の代わりに京都で政務や高国方の摘発を行い、5月1日に義稙から京兆家の家督相続を許された澄元の代理として御礼を述べ、絶頂期を迎えた。 だが、3日に近江に逃れていた高国が六角定頼や蒲生定秀、朝倉氏や土岐氏など2万(4万 - 5万とも)の大軍を率いて上洛、之長の四国軍はわずかに4 - 5000(2000とも)ほどしかなかったため、5日正午に等持院の東南で行なわれた合戦(等持院の戦い)において、之長は局部で勝利を得るも午後6時頃には四国軍の久米・河村・東条などが高国に降ったため、午後8時頃には大勢が決して三好軍は大敗、之長に同行していた海部氏は戦場からの脱出に成功したものの、之長は子の芥川長光や三好長則、甥の新五郎らと共に曇華院を頼って身を隠した。 高国は9日に之長の潜伏先を知り、院に引渡しを要求するも拒絶されたため之長らの生命を保証する事を条件にした。これにより10日に長光と長則が、11日に之長と新五郎が高国に降伏したが、この時之長は法体になっていたという。しかしこれは高国の計略であり、降伏した同日に之長は新五郎と共に百万遍の知恩寺において斬首された。享年63。之長の2人の子息(芥川長光、長則)も翌日に死罪に処された。 『盲聾記』(永正17年5月7日条)によれば、高国に降った四国の諸将は三好筑州(之長)に対する不満が降伏の一因であったと記され、また脱出に成功した海部某は之長とともに阿波の宿老を務めていた人物であったことから、讃岐・阿波における之長らへの不満が不利な戦況の中で一気に噴き出した可能性がある。 伊丹城で待機していた澄元は之長の敗死を受けて阿波へ戻ったが、病身であったため6月10日に亡くなり子の晴元が継承した。三好氏の家督は之長の孫で長秀の長男である元長が継承、元長は晴元を擁立しながら高国打倒を目指し阿波で力を蓄えていった。
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