田中城の戦いとは? わかりやすく解説

田中城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 23:44 UTC 版)

下田中城」の記事における「田中城の戦い」の解説

永正8年1511年8月細川澄元軍と細川高国軍が船岡山合戦戦闘行なったが、細川高国軍が勝利し細川澄元軍は敗れ本拠地である阿波逃走し再起機会狙っていた。永正14年1517年)、澄元の部将三好之長は軍を率いて淡路侵攻し守護所であった養宜館奪い取り細川尚春追い出し淡路水軍支配下入れた。また高国同盟関係にあり、軍事力では主力であった大内義興軍が、尼子経久勢力拡大し周防を度々脅かし始めたため、永正15年1518年8月2日突然帰国した大内義興在京期間は10年及んだが、軍事力中枢失い高国影響力低下した上洛準備整いつつある永正16年1519年秋頃四国勢播磨国をもって上洛する計画持ち上がり永正5年1508年5月10日戦死した池田城城主池田貞正の息子三郎五郎(後の勝俊、久宗、信正とも)が失地回復計画し先陣申し出た池田久宗は摂津有馬郡にある下田中城籠城、澄元軍の橋頭堡とした。 これに対して高国軍は越水城瓦林政頼池田城池田民部丞、山下城塩川孫太郎追討令を出し三者相談の上同年10月22日夜半より夜討ち仕掛けることにした。しかし、池田民部丞の寄せ手中に宗と内応するものがおり、事前に夜討ち知られる事となり、城方十分な防備整え高国軍を待ち構えた深夜より降りだし、暗闇地理不案内手伝い首級30余り討ち取られ敗戦終わった。この功績に対して澄元は久宗に豊嶋郡代を与えた。 この勝利に澄元軍は、阿波より兵庫尼崎より上陸越水城の合戦繋がっていく。 その後下田中城は再び北畠氏復したようだが、天文年間荒木村重によって滅ぼされ下田中城兵火により廃城となった考えられている。永禄7年1564年)に、下田中城南側にある丘陵菅原道真祀っている天満神社があったが天文年間下田中城と共に焼失した。しかし山崎垣政がその社殿増築し城の鎮守としたとの伝承があるが、これは下田中城再興ではなく天満神社より更に南西にある三田市寺村町周辺立石城の事であると考えられている。

※この「田中城の戦い」の解説は、「下田中城」の解説の一部です。
「田中城の戦い」を含む「下田中城」の記事については、「下田中城」の概要を参照ください。

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