田中城の戦い
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永正8年(1511年)8月、細川澄元軍と細川高国軍が船岡山合戦で戦闘を行なったが、細川高国軍が勝利し、細川澄元軍は敗れ本拠地である阿波に逃走し、再起の機会を狙っていた。永正14年(1517年)、澄元の部将三好之長は軍を率いて淡路へ侵攻し、守護所であった養宜館を奪い取り、細川尚春を追い出し淡路水軍を支配下に入れた。また高国と同盟関係にあり、軍事力では主力であった大内義興軍が、尼子経久の勢力が拡大し周防を度々脅かし始めたため、永正15年(1518年)8月2日突然帰国した。大内義興の在京期間は10年に及んだが、軍事力の中枢を失い高国の影響力は低下した。 上洛の準備が整いつつある永正16年(1519年)秋頃、四国勢と播磨国勢をもって上洛する計画が持ち上がり、永正5年(1508年)5月10日に戦死した池田城の城主池田貞正の息子の三郎五郎(後の勝俊、久宗、信正とも)が失地回復を計画し、先陣を申し出た。池田久宗は摂津有馬郡にある下田中城に籠城、澄元軍の橋頭堡とした。 これに対して高国軍は越水城の瓦林政頼、池田城の池田民部丞、山下城の塩川孫太郎に追討令を出し、三者は相談の上、同年10月22日夜半より夜討ちを仕掛けることにした。しかし、池田民部丞の寄せ手の中に久宗と内応するものがおり、事前に夜討ちが知られる事となり、城方は十分な防備を整え高国軍を待ち構えた。深夜より雨が降りだし、暗闇で地理不案内も手伝い、首級30余りを討ち取られ敗戦に終わった。この功績に対して澄元は久宗に豊嶋郡代を与えた。 この勝利に澄元軍は、阿波より兵庫と尼崎より上陸、越水城の合戦へ繋がっていく。 その後、下田中城は再び北畠氏に復したようだが、天文年間に荒木村重によって滅ぼされ、下田中城も兵火により廃城となったと考えられている。永禄7年(1564年)に、下田中城の南側にある丘陵に菅原道真を祀っている天満神社があったが天文年間に下田中城と共に焼失した。しかし山崎垣政がその社殿を増築し城の鎮守としたとの伝承があるが、これは下田中城の再興ではなく、天満神社より更に南西にある三田市寺村町周辺の立石城の事であると考えられている。
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