井植歳男
井植歳男とは、三洋電機の創業者である。1902年(明治35年)12月28日、淡路島の浦村(津名郡東浦町)生まれ。松下幸之助氏とは類縁の関係にあたる。
13の頃に父親を亡くした井植歳男は、叔父の船の見習い船員として働きはじめる。「板子一枚底地獄」といわれた過酷な労働環境・生活環境のなか、井植歳男は、強靭な忍耐力と頑健な意志力をはぐくんだ。しかし生命を危ぶむような危機に瀕することもあり、心労を見せる母を思った井植歳男は船員の道を断念する。
この頃、井上歳男の姉の夫である松下幸之助は、大阪で独立し事業を始めていた。井植は松下に誘われて、大阪に上った。
幸之助が始めた松下電気器具製作所は、徐々に軌道に乗り始める。井植歳男は、東京への進出を松下幸之助に提言し、同意を得る。そして17歳の歳男が単身、東京駐在第一号として東京に乗り出すことになる。東京の地での貪欲な営業活動は、その後の豊富な営業経験となって積まれていく。松下電器のもとで長らく仕事に関わってきた井植歳男は、いつしかナンバー2の立場におかれるようになった。しばしば病床に付した松下幸之助に代わってに陣頭指揮をとることも多かったという。
松下での勤務30年余りを経て、井植歳男は、戦後GHQからの松下幸之助に対する公職追放令の影響を受けて退社、独立を決意する。設立は1947年、社名は幼い頃より親しんだ大海をイメージして三洋電機とした。幸之助からは餞別として工場が譲られた。その後、発電ランプや洗濯機において国内市場におけるシェアをトップにのし上げるなどの成功を収める。いわゆる家電三種の神器を中心として総合家電メーカーとしての地歩を固めていった。
1968年1月、井植は弟へ社長の座を譲る形で会長へと退く。翌1969年7月に逝去した。
(更新:2006年1月)
参照リンク
三洋電機
創業者 井植歳男について (三洋電機)
井植歳男
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/01 20:01 UTC 版)
井植 歳男(いうえ としお、英語:Toshio Iue, 1902年12月28日 - 1969年7月16日)は、日本の実業家。三洋電機株式会社の創業者。松下電気器具製作所(松下電器産業を経て、現・パナソニック)の創業メンバーで、専務取締役を務めた。
注釈
出典
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 78頁。
- ^ 柳町功「1960年代における韓国・三星財閥の新規事業展開 : 肥料プロジェクトの挫折と電子事業への進出」『三田商学研究』第49巻第6号、慶應義塾大学出版会、2007年1月、147-158頁、ISSN 0544-571X、NAID 40015406005、CRID 1050001337394066816。
- ^ 李恵美「<論文>サムスングループの形成と成長における日本からの影響 : 1938年から1987年までの期間を対象に」『国際日本研究』第8巻、筑波大学人文社会科学研究科国際日本研究専攻、2016年3月、125-144頁、doi:10.15068/00145457、hdl:2241/00145457、ISSN 2189-2598、CRID 1390853649580733056。
- ^ “LIXIL、井植副社長が6月退任 三洋電の創業家出身”. ニュース. 日本経済新聞 (2017年5月8日). 2018年1月13日閲覧。
- ^ a b c d e 井植貞雄. “理事長ごあいさつ”. 井植記念会. 2023年5月2日閲覧。
- ^ a b 水島あかね、玉田浩之「神戸市塩屋ジェームス山の戦後拡張計画について」『日本都市計画学会関西支部研究発表会講演概要集』第16巻、2018年、doi:10.11361/cpijkansai.16.0_1、2023年5月2日閲覧。
- ^ “築 80 年 神戸の歴史的洋館「旧ジェームス邸」が建築デザイン賞受賞”. ノバレーゼ. 2023年5月2日閲覧。
- ^ a b c “井植歳男記念室のご案内”. 井植記念会. 2023年5月2日閲覧。
固有名詞の分類
- 井植 歳男のページへのリンク