五輪返上と交歓競技大会とは? わかりやすく解説

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五輪返上と交歓競技大会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/25 20:51 UTC 版)

東亜競技大会」の記事における「五輪返上と交歓競技大会」の解説

1938年7月日本1940年東京五輪開催返上する詳細当該リンク先参照)。そこで、大日本体育協会では新たな方向性模索この中で"日満"、つまり日本満州中華民国臨時政府以下略称を中華)で競技大会を開く計画建てられた。当時満州および中華は、スポーツ占領政策道具として有効活用できると肯定的に捉えており乗り気になったが、中華が全競技参加できる編成組めないため競技大会ではなく親睦意味する"交歓競技会"あるいは"招待競技会"として開催されることになった満州首都新京での開催決定文教地区として開発していた新京南嶺地区"国立総合運動場"(あるいは南嶺競技場)に各種スポーツ専用競技場急ピッチで作られた。 本来の開会式日は雨天となったため翌日1939年9月1日から、新京で「日満華交歓競技大会」が開催される大会通じてによる最悪なコンディションの中で行われた実施競技陸上・バスケットボール・バレーボール・サッカーの4競技日本盛んだった水泳野球武道体操などは実施されず、特に野球満州側が対戦希望した東京六大学野球連盟参加拒否したため実現しなかった。そのうちバレーに関して中華参加せず日満の2チーム間での対戦残り3競技は日満の3チーム総当りとなった開催経緯からもわかる通り日本に対して満州中華がどれだけ善戦できるかがこの大会焦点ではあった。中でもハイライトサッカーであった。元々華北地方サッカー盛んな土地先の極東大会では中国が9連覇しそれを引き継ぐ中華も十分強く満州国技サッカーであり、日本先のベルリン五輪強豪チームを破るなど強化してきたが苦戦予想された。結果日本が2戦2勝したが2戦とも試合荒れ日華戦では乱闘騒ぎ起こっている。バスケバレー日本全勝した陸上中華予想外に頑張ったものの最終成績日本が1位、満州2位となった開幕会場大会名8月19日 京城 満鮮対抗競技大会 8月26日 大連 日本選手団歓迎競技大会 8月31日 日満華交歓競技大会 9月5日 奉天 日満奉天大会 9月9日 京城対抗綜合競技大会五族協和」を建国理念とした満州であったがこの大会で満州族朝鮮民族白人チームとして融和しておらず、満州族の客が応援していたのは満州ではなく中国人のみでチーム構成された中華だったことなど、この大会政治的に利用したにもかかわらず現実浮かび上がらせる結果となったまた、この大会前後満州中華加え朝鮮日本統治時代の朝鮮)が招致し大会開かれており、選手側から見ればこの大会一連の競技大会一部に過ぎなかった。 なお第2回大会日本開催しようとしたが、資金不足加え政府協力がなかったため開催できなかった。

※この「五輪返上と交歓競技大会」の解説は、「東亜競技大会」の解説の一部です。
「五輪返上と交歓競技大会」を含む「東亜競技大会」の記事については、「東亜競技大会」の概要を参照ください。

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