五輪返上と交歓競技大会
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「東亜競技大会」の記事における「五輪返上と交歓競技大会」の解説
1938年7月日本は1940年東京五輪開催権を返上する(詳細は当該リンク先参照)。そこで、大日本体育協会では新たな方向性を模索、この中で"日満華"、つまり日本・満州・中華民国臨時政府(以下略称を中華)で競技大会を開く計画が建てられた。当時満州および中華は、スポーツを占領政策の道具として有効活用できると肯定的に捉えており乗り気になったが、中華が全競技に参加できる編成を組めないため競技大会ではなく親睦を意味する"交歓競技会"あるいは"招待競技会"として開催されることになった。満州の首都・新京での開催が決定、文教地区として開発していた新京南嶺地区"国立総合運動場"(あるいは南嶺競技場)に各種スポーツ専用競技場が急ピッチで作られた。 本来の開会式日は雨天となったため翌日の1939年9月1日から、新京で「日満華交歓競技大会」が開催される。大会を通じて雨による最悪なコンディションの中で行われた。 実施競技は陸上・バスケットボール・バレーボール・サッカーの4競技。日本で盛んだった水泳・野球・武道・体操などは実施されず、特に野球は満州側が対戦を希望したが東京六大学野球連盟が参加を拒否したため実現しなかった。そのうち、バレーに関しては中華が参加せず日満の2チーム間での対戦、残り3競技は日満華の3チーム総当りとなった。 開催経緯からもわかる通り、日本に対して満州・中華がどれだけ善戦できるかがこの大会の焦点ではあった。中でもハイライトはサッカーであった。元々華北地方はサッカーの盛んな土地で先の極東大会では中国が9連覇しそれを引き継ぐ中華も十分強く、満州は国技がサッカーであり、日本は先のベルリン五輪で強豪チームを破るなど強化してきたが苦戦が予想された。結果日本が2戦2勝したが2戦とも試合は荒れ、日華戦では乱闘騒ぎも起こっている。バスケもバレーも日本が全勝した。陸上は中華が予想外に頑張ったものの最終成績は日本が1位、満州が2位となった。 開幕日会場大会名8月19日 京城 満鮮対抗競技大会 8月26日 大連 日本選手団歓迎競技大会 8月31日 日満華交歓競技大会 9月5日 奉天 日満華奉天大会 9月9日 京城 鮮華対抗綜合競技大会 「五族協和」を建国理念とした満州であったがこの大会では満州族・朝鮮民族・白人がチームとして融和しておらず、満州族の客が応援していたのは満州ではなく中国人のみでチーム構成された中華だったことなど、この大会を政治的に利用したにもかかわらず現実を浮かび上がらせる結果となった。また、この大会の前後に満州・中華に加え朝鮮(日本統治時代の朝鮮)が招致した大会も開かれており、選手側から見ればこの大会は一連の競技大会の一部に過ぎなかった。 なお第2回大会を日本で開催しようとしたが、資金不足に加え政府の協力がなかったため開催できなかった。
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