中部電力の首都圏進出
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一方、東日本大震災後の2013年(平成25年)、水野明久社長(当時)の率いる中部電力は、他の電力会社に先駆け、首都圏への進出を始めた。 当時既に、地域別の10電力会社(一般電気事業者)が自己の供給区域外の高圧・特別高圧の需要家に電気を供給(域外供給)できる制度になっていた。国は、この制度により、需要家の利益になる電力会社間競争を促進する目論見であった。しかしながら、10社の間には「仲間同士、足を引っ張るのはやめましょうという不文律」があった。2005年(平成17年)に「不文律」を破って中国地方の需要家に電気を供給した九州電力には、他の電力会社からの非難が殺到した。以来、「供給エリアを超えての販売はお互い顔を見合わせて、やらないようにしている状況」であり、期待された電力会社間競争は起きていなかった。 中部電力は、2012年(平成24年)まで、この「不文律」を守っていたが、密かに首都圏進出を画策したことがあった。2009年(平成21年)頃、中部電力の三田敏雄社長(当時)は、電力自由化が進めば中部電力が東電と関西電力(関電)に挟み撃ちにされる可能性を案じ、そうなる前に電源開発(Jパワー)と提携して首都圏に進出することを模索した。Jパワーは乗り気であったというが、2010年(平成22年)に中部電力の社長が水野明久に交代したことと、その翌年に東日本大震災(と電力危機)が発生したことが原因で、実現に至らなかった。 2012年(平成24年)、東電は、当時の自由化部門(高圧・特別高圧)の電気料金を平均約17%値上げすることを発表した。その直後から、中部電力には、首都圏の需要家からの相談が寄せられるようになった。当初、中部電力は、原発が運転できずに危機に陥っている関電に電気を融通する必要があり、余力がないという理由で、域外供給の話を全て断っていた。しかし、翌年、電力業界の「不文律」を破り、ついに首都圏進出を果たした。 2013年(平成25年)、東電は、9.53円/kWh以下で将来のベースロード電源を募集した。ほかの事業者がほとんど見向きもしないような条件であったが(事実、260万kWの募集に対し応募は68万kW止まりで、うち65万kWは中部電力による応募であった)、中部電力は、東電の火力部門と組んでこれに応募した。東電の常陸那珂火力発電所の構内に800億円前後かけて65万kWの石炭火力発電設備を建設し、その建設費の大半を中部電力が負担する計画であった。中部電力は、建設費を負担する代償として、この設備から得られる電気の一部を引き取り、独自に首都圏で販売したいと申し入れ、東電をあわてさせた。8月になると、首都圏の高圧・特別高圧の需要家に電気を供給する新電力「ダイヤモンドパワー」を三菱商事から買収すること、静岡県富士市で発電してダイヤモンドパワーに電気を卸す計画(鈴川エネルギーセンター)に参画することを発表した。 首都圏進出を果たした翌年の2014年(平成26年)3月、東電から『特別事業計画』に沿った包括提携の提案書が届いた。それからというもの、勝野哲副社長(当時)の率いる経営戦略本部では、連日、包括提携の得失に関する議論が繰り広げられた。包括提携に応ずれば、首都圏での販売を拡大するための電源を手に入れることができるが、包括提携が「ひさしを貸して母屋を取られる」ことになる可能性が懸念された。最終的には、水野明久社長(当時)が「変革期はチャンスにほかならない」という考えのもと、包括提携の相手として立候補することを決断した。 当時の経営陣は「東電が首都圏の安定供給の役割を果たせないなら、中部電がその役割を担うしかない」という覚悟を決めていたという。もっとも、中部電力は、原発を再稼働する関西電力が中部エリアに進出するシナリオを想定しており、「ジリ貧の将来を考えれば、首都圏と海外の火力で稼ぐしか」ない、首都圏進出は「東電が弱体化している今しかできない」というのが本音であったともいう。
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